【仏法は勝負】
信心こそ勝利を勝ち取る源泉
「仏法は勝負」
よく聞く言葉ですが、御書には、どのように説かれているのでしょうか。
大聖人は「四条金吾殿御返事」に「仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」と仰せです。
正しい、仏法の教えを根本に強盛な信心を貫いていけば、どんな迫害に直面しても必ず勝利していけると、四条金吾を励まされているのです。
この御文の「王法」とは。
王法は、社会を支配したり律していく力です。
現代的にいえば「社会の約束事、ルール」です。
王は、その基準に基づいて功績ある人に対して賞賛するなり処遇を良くします。
反対に、罪ある人を罰することによって社会の秩序を保っていきます。
それが、王法は賞罰を根本としている、の意味です。
しかし、その賞罰の基準は、時代や社会によっても、あり方はさまざまだと思います。
それに対して、真実の仏法は、宇宙と生命を貫く永遠に変わらない普遍的な「真理」に基づくものです。
当然、現実の結果の姿に、法の正しさが、はっきりと現れてきます。
結局、人も社会も、正しい真理に基づくかどうかです。
いかなる状況の変化があろうとも、正しい教えを根本とすれば、一生のうちに仏の境涯を開いて人生を勝利していけるのです。
根源の真理に基づいて、「人としての生き方」を教えるのが、仏法なのです。
「人として踏まえるべき正しい道」が「道理」です。
同じ御書のなかで、大聖人は「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」とも仰せです。
道理にかなった生き方は、生活と人生のうえに必ず勝利の「実証」(事実による証明)となって現れます。
大聖人が、この御書を記された当時、主君の江間氏は四条金吾に、信心をやめさせようと理不尽な圧迫を加えていました。
しかし、この御文で大聖人は、金吾が「道理」にかなった生き方をしていけば、主君が押しつけてくる「非道」に必ず打ち勝てる、と教えられているのです。
そして、大聖人の御指導通りに、金吾は迫害を乗り越え、「所領」を加増され、最後は主君からの信頼を勝ち取りました。
信心根本の生き方は、時代・社会の移り変わりを超えて、永遠にわたる根本的な勝利、真実の幸福を勝ち取っていく源泉となります。
日蓮大聖人が「仏法は勝負をさきとし、王法は賞罰を本とせり」と仰せなっているように、これ(功徳と罰の厳然たる現証)こそ宗教の生命というべきものであります。
大聖人の御生涯そのものが、「仏法は勝負」を証明する闘争だった、と思います。
信心は、人間の、また人類の行き詰まりとの戦いです。
魔と仏との闘争が信心です。
それが仏法は勝負ということです。
末法に正しい教えを弘めていくなかで、個々人の信心と広宣流布を阻む「魔」の出現は必然ともいえます。
その魔は、権力者などの心に入り込んで、広宣流布の人々の前進をも阻みます。
強盛な信心の実践によって、その魔に打ち勝ってこそ広宣流布は前進します。
仏法は勝負です。
魔性が勝てば悪がはびこります。
万人の幸福を勝ち取るためにも、悪を破って正義を宣揚していく実践が重要となるのです。(宣揚とは広く世の中に明らかにする事)
戦後間もない時代、戸田先生は次の様に池田先生にご指導なさいました。
信念のない日本。哲学もない日本。
理念も、展望も、民衆への慈愛も責任感もない日本。
私たちは、愚者に何を言われようと関係ない。
池田先生はこのご指導の後、次の様に思われたそうです。
戸田先生が喝破されました。「仏法は勝負」である。「国法は賞罰」である。
「世法(世間法)は評判」である。
世法の評判というものは、あてになるはずがない。
感情であり、決めつけであり、裏がある。
仏法は、不変絶対の法である。そして勝負は絶対のものである。
勝つか負けるか、正義と幸福を実現できるか否か中間はないのです。
このように、まったく基準が違うということを見あやまってはならないのです。
これが戸田先生の遺言であり、牧口先生の信条である。
そして、ここに大聖人のご精神があると確信いたします。
大聖人に「よくやった!」とほめられれば、それでよいのです。
牧口先生、戸田先生に「さすがだな」と言われれば、それでよいのである。
私たちの広宣流布の真価は、百年先、二百年先に必ず証明されるに決まっている。恐れることなど何もない。
【仏法は勝負】
信心こそ勝利を勝ち取る源泉


