(法華経と共に)[13]幸福とは、乗り物に乗る様に、ゆだね、学ぶだけ❣️法華経【第六章】1.授記品

法華経

法華経【第六章】授記品じゅきほんその1

授記
万人ばんにんを「絶対的幸福の軌道きどう」へ

法華経と共に

仏の説法は「対話」であり、「座談会」に通じる、と言ってもよいでしょう。

今みなさんが、参加されている、SNSでのグループ対話も、座談会に似たものを感じます。

そして釈尊の最終結論である法華経も、壮大な「大座談会」なのです。

人生を模索もさくし、真摯しんしに問いかける求道きゅうどうの人々。

体験を通し、譬喩ひゆ駆使くしして、誠実せいじつに答えていく釈尊。

そのやりとりを見て聴いて、ともに「境涯を開く喜び」につつまれる人々。

その決意の発光はっこう連動れんどう感応かんのうみょう

この「座談会」で釈尊は、どのようにして衆生の心に、妙法の旭日きょくじつのぼらせていったのか。

その大きな焦点しょうてんとなるのが「授記じゅき」です。

授記品について語っていきましょう。

「授記」とは、未来に必ず成仏できるという、保証の言葉を、釈尊から弟子にさずけることです

授記品では、四大声聞しだいしょうもん、すなわち迦葉かしょう須菩提しゅぼだい迦旃延かせんねん目犍連もっけんれん目連もくれん)の四人の声聞に対して、釈尊から授記されていきます。

先の舎利弗への授記じゅきに次いで、二回目の授記になります。

また、これで、譬喩品ひゆほん【第三章】の「三車火宅さんしゃかたくたとえ」から始まった四大声聞に対する説法が、いちおう締めくくられることになります。

「成仏とは具体的にどういう状態なのか」

法華経の声聞への授記では、成仏は未来のことになります。

一方、大聖人は一生成仏だと説かれている。

であれば、この一生において、成仏とは、どういう状態を言うのであろうかという疑問ですね

むずかしい問題ですが、端的たんてきに言えば、成仏とは、一つの「ゴール」にいたることというよりも、えず仏界を強め続けていく「無上道むじょうどう軌道きどう」に入ることなのです。

法華経の迹門しゃくもんでは、まだ歴刧修行りゃっこうしゅぎょうの成仏観から出ていません。(迹門=仮の法門)

それで、「遠い未来に成仏する」という授記になる。

しかし、その本意は、「仏と同じ道を歩ませること」にあるのです。

仏が歩んだ「生命の軌道きどう」「絶対的幸福へのレール」に確かに乗ったよ、と保証するのが授記です。

色相荘厳しきそうそうごうの仏に成る」という爾前迹門にぜんしゃくもんの成仏ではない。色相荘厳=三十二相八十種好しゅこうという超人的な特徴をそなえた荘厳な姿をした仏。

仏が歩んだのと同じ「軌道」を歩み続けること自体が成仏なのです。

それでは、仏と同じ「軌道」を行くとは、具体的には、どういうことか。

それは法華経を「授持じゅじ」することです。

法華経の授持じゅじとは、法華経に示された仏の心を自分の生命にきざんで、仏の心の通りに生きていくことです。

何があっても仏の心から離れないように生きていくことです。

だから仏道という「軌道」をはずれない。

それが受持即成仏です!

神力品じんりきほん【第二十一章】には「我が滅度めつどのちいて まさの経を受持じゅじすべし の人は仏道にいて 決定けつじょうしてうたがい有ることけん」とあります。

日蓮大聖人の生涯を変えた経文の一つでは無いでしょうか。成仏を決定ずける瞬間となったのでは無いでしょうか!

すなわち、法華経を「受持じゅじ」する人が、「仏道」を間違いなく歩めるのです。

そして、その人の成仏は疑いないと説かれている。

成仏とはどのような「状態」か、といういそのものに、まだ爾前迹門にぜんしゃくもんの成仏観にとらわれている面が見られます。爾前=法華経が説かれる前の経典の事。迹門=法華経の第一章、序品じょぼんから第十四章、安楽行品あんらくぎょうほんまでの経典の事。

今の姿とは違う、何らかの、達成された状態を想定そうていしている場合が多い。

私たちは、どうしても「仏に成る」という表現から、そういう考え方になりがちです。

大聖人は、「じょうは開くなり」成仏とは仏に「る」のではなくて、我が身を仏と「ひらく」、仏の生命を「ひらく」ことだと仰せです。

成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。

大聖人の凡夫即極ぼんぷそくごく諸法実相しょほうじっそうとのおことばを、すなおに信じたてまつって、この身このままが、永遠の昔より永劫えいごうの未来にむかって仏であると覚悟かくごすることなのです。

授記品には、目連への授記のときに、「の身を捨ておわって」という言葉が出てきます。

目連もくれんが今の身を捨てて、未来世に多くの諸仏のもとで修行し、最終的には成仏するという趣旨しゅしもんです。

大聖人は、この文について「是の身を捨てて仏に成るというのは爾前権教にぜんごんきょうの意である。むしろ、そのような執情しゅうじょう(とらわれ)を捨てることが、法華経のこの文の本意である」と言われています。権教=仏が衆生を実教に導き入れるために、衆生の受容能力に応じて説いたごん(かり)の教え。

そして、この「捨てる」というのは「ほどこす」と読むのだとされ、この身を捨てるとは「法界に五大をほどこす」ことであると仰せです。

法界とは宇宙であり、世界であり、すべての衆生です。

五大とは生命です。

「法界に五大をほどこす」とは、我が生命を利他りたのためにほどこす「菩薩の行動こうどう」です。

菩薩道を歩むこと自体が、成仏なのです。

法華経では、本門(後半からの十四品)で新しい成仏観が示されます。

すなわち、寿量品じゅりょうほん(第十六章)で説かれた久遠実成くおんじつじょうの仏は、成仏してからも菩薩行はやめません。久遠実成=インドに生まれ今世で成仏したと説いてきた釈尊が、実は五百塵点劫ごひゃくじんてんこうという非常に遠い過去(久遠)に成仏してた。また詳しい事を法華経第十六章如来寿量品で明らかにされた。

菩薩であることをやめて仏に成ったのではないのです。

仏の実践、姿と言っても、具体的には菩薩行なのです。

成仏しても菩薩道という「軌道」を歩み続ける。

それがすなわち「仏道」なのです。

寿量品の最後にも「どうすれば衆生を無上むじょうどうに入らせ、すみやかに仏身ぶっしん成就じょうじゅさせることができるのか」との仏の願いが説かれています。

「無上の道に入らせる」ことが、仏身を成就させる(成仏させる)ことであることがうかがえます。

やはり本門のまなこで見ると、成仏とは「ゴール」とか特別な「状態」というよりも、「軌道きどう」だということになります。

あえて、成仏以前と以後との「状態」の違いを言うとすれば、軌道が「定まっている」というのは、自他ともの幸福を願う「心」が定まっているということです。

その心で、つねに前進しているということです。

自他ともの幸福、平和を願う心の軌道が全世界に広がれば、すばらしいことです。

法華経【第六章】授記品じゅきほんその1

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