法華経【第六章】授記品その1
授記
万人を「絶対的幸福の軌道」へ
法華経と共に
仏の説法は「対話」であり、「座談会」に通じる、と言ってもよいでしょう。
今みなさんが、参加されている、SNSでのグループ対話も、座談会に似たものを感じます。
そして釈尊の最終結論である法華経も、壮大な「大座談会」なのです。
人生を模索し、真摯に問いかける求道の人々。
体験を通し、譬喩を駆使して、誠実に答えていく釈尊。
そのやりとりを見て聴いて、ともに「境涯を開く喜び」につつまれる人々。
その決意の発光、連動、感応の妙!
この「座談会」で釈尊は、どのようにして衆生の心に、妙法の旭日を昇らせていったのか。
その大きな焦点となるのが「授記」です。
授記品について語っていきましょう。
「授記」とは、未来に必ず成仏できるという、保証の言葉を、釈尊から弟子に授けることです
授記品では、四大声聞、すなわち迦葉、須菩提、迦旃延、目犍連(目連)の四人の声聞に対して、釈尊から授記されていきます。
先の舎利弗への授記に次いで、二回目の授記になります。
また、これで、譬喩品【第三章】の「三車火宅の譬え」から始まった四大声聞に対する説法が、いちおう締めくくられることになります。
「成仏とは具体的にどういう状態なのか」
法華経の声聞への授記では、成仏は未来のことになります。
一方、大聖人は一生成仏だと説かれている。
であれば、この一生において、成仏とは、どういう状態を言うのであろうかという疑問ですね
むずかしい問題ですが、端的に言えば、成仏とは、一つの「ゴール」に至ることというよりも、絶えず仏界を強め続けていく「無上道の軌道」に入ることなのです。
法華経の迹門では、まだ歴刧修行の成仏観から出ていません。(迹門=仮の法門)
それで、「遠い未来に成仏する」という授記になる。
しかし、その本意は、「仏と同じ道を歩ませること」にあるのです。
仏が歩んだ「生命の軌道」「絶対的幸福へのレール」に確かに乗ったよ、と保証するのが授記です。
「色相荘厳の仏に成る」という爾前迹門の成仏ではない。色相荘厳=三十二相八十種好という超人的な特徴をそなえた荘厳な姿をした仏。
仏が歩んだのと同じ「軌道」を歩み続けること自体が成仏なのです。
それでは、仏と同じ「軌道」を行くとは、具体的には、どういうことか。
それは法華経を「授持」することです。
法華経の授持とは、法華経に示された仏の心を自分の生命に刻んで、仏の心の通りに生きていくことです。
何があっても仏の心から離れないように生きていくことです。
だから仏道という「軌道」をはずれない。
それが受持即成仏です!
神力品【第二十一章】には「我が滅度の後に於いて 応に斯の経を受持すべし 是の人は仏道に於いて 決定して疑い有ること無けん」とあります。
日蓮大聖人の生涯を変えた経文の一つでは無いでしょうか。成仏を決定ずける瞬間となったのでは無いでしょうか!
すなわち、法華経を「受持」する人が、「仏道」を間違いなく歩めるのです。
そして、その人の成仏は疑いないと説かれている。
成仏とはどのような「状態」か、という問いそのものに、まだ爾前迹門の成仏観にとらわれている面が見られます。爾前=法華経が説かれる前の経典の事。迹門=法華経の第一章、序品から第十四章、安楽行品までの経典の事。
今の姿とは違う、何らかの、達成された状態を想定している場合が多い。
私たちは、どうしても「仏に成る」という表現から、そういう考え方になりがちです。
大聖人は、「成は開く義なり」成仏とは仏に「成る」のではなくて、我が身を仏と「成く」、仏の生命を「成く」ことだと仰せです。
成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。
大聖人の凡夫即極、諸法実相とのおことばを、すなおに信じたてまつって、この身このままが、永遠の昔より永劫の未来にむかって仏であると覚悟することなのです。
授記品には、目連への授記のときに、「是の身を捨て已って」という言葉が出てきます。
目連が今の身を捨てて、未来世に多くの諸仏のもとで修行し、最終的には成仏するという趣旨の文です。
大聖人は、この文について「是の身を捨てて仏に成るというのは爾前権教の意である。むしろ、そのような執情(とらわれ)を捨てることが、法華経のこの文の本意である」と言われています。権教=仏が衆生を実教に導き入れるために、衆生の受容能力に応じて説いた権(かり)の教え。
そして、この「捨てる」というのは「ほどこす」と読むのだとされ、この身を捨てるとは「法界に五大を捨す」ことであると仰せです。
法界とは宇宙であり、世界であり、すべての衆生です。
五大とは生命です。
「法界に五大を捨す」とは、我が生命を利他のためにほどこす「菩薩の行動」です。
菩薩道を歩むこと自体が、成仏なのです。
法華経では、本門(後半からの十四品)で新しい成仏観が示されます。
すなわち、寿量品(第十六章)で説かれた久遠実成の仏は、成仏してからも菩薩行はやめません。久遠実成=インドに生まれ今世で成仏したと説いてきた釈尊が、実は五百塵点劫という非常に遠い過去(久遠)に成仏してた。また詳しい事を法華経第十六章如来寿量品で明らかにされた。
菩薩であることをやめて仏に成ったのではないのです。
仏の実践、姿と言っても、具体的には菩薩行なのです。
成仏しても菩薩道という「軌道」を歩み続ける。
それがすなわち「仏道」なのです。
寿量品の最後にも「どうすれば衆生を無上の道に入らせ、速やかに仏身を成就させることができるのか」との仏の願いが説かれています。
「無上の道に入らせる」ことが、仏身を成就させる(成仏させる)ことであることがうかがえます。
やはり本門の眼で見ると、成仏とは「ゴール」とか特別な「状態」というよりも、「軌道」だということになります。
あえて、成仏以前と以後との「状態」の違いを言うとすれば、軌道が「定まっている」というのは、自他ともの幸福を願う「心」が定まっているということです。
その心で、つねに前進しているということです。


