【生活法】
現実に打ち勝つ為の仏法
「信仰」は、現実の「生活」や「社会」と、どういう関係にあるのでしょうか。
日蓮大聖人の仏法は、現実の生活を限り無く向上させ、現実の人生の中で、「崩れざる幸福境涯」を開いて行く為の信仰です
と同時に、日蓮大聖人の教えは、仏法の智慧によって、社会の平和と繁栄を目指す宗教でもあります。
ここでは、「信心と人生」について学んで行きます。
私達の周りには、様々な人がいます。
「金銭」を一番、大切にしている人、また、「地位」や「名誉」だけを頼りにしている人。
何を拠り所として生きるか、それによって人生は大きく左右されます。
様々に価値観が多様化する中で、何を根本として生きるかです
基準は、「信心」であり、「御本尊」であり、更に「御書」です。
どこまでも、仏法を根本とした生き方であると言っても良いかもしれません。
では、仏法を根本とした人生と、そうで無い人生とでは、何が違ってくると思いますか。
まず、「何を根本として生きるか」
「根本」というのは、広い意味で「信仰」だといえます。
例えば、ある人がお金をよりどころとすれば、その人にとってお金が「信仰」の対象です。
何を根本とするかによって、人生は大きく変わります。
つまり、意識しようとしまいと、「信仰」は、良くも悪くも、生活に影響を与えて行く物です
結論を言えば、仏法は、決して生活から、掛け離れた所に有る物ではありません。
だからこそ、信心根本に、生き方や生活を変えて行けるのです
それは、人生を豊かに、向上させていくために仏法はある、という意味でもあるのです。
生活に勝利し、人生を勝利する為の信心です。
その意味で、仏法とは「生活法」でもあるのです。
平たく言えば、仏法は、どう生きて行けばいいかを教えていると言う事です。
御書
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」
「御みやづかい」とは、主君等に仕える事ですが、今で言えば、仕事や生活と言えます。
この御文は、仕事をはじめ日々の生活が、法華経の修行であり、実践であると思いなさい、と言う意味です。
生活とは、信心を根本とした自身の生き方を示す場である事を教えられているのです。
仏法は決して生活とかけ離れたものではないと、日蓮大聖人が考えられていたことが分かります。
先程の御文の直前で、大聖人は「あなたが、そのまま出仕(=出勤)しておられることこそ、法華経を昼夜に修行されていることになるのです」と仰せです
仏法は現実の生活を生き抜く為の教えです。
こうした大聖人の教えられた「生き方」、つまり信心に根ざして生活と人生を向上させようとする生き方を、実践して行きましょう。
信仰して、自分が向上、価値ある日々を送れなければ、信仰をする意味がありません。
困難な現実を乗り越える為に、仏界の生命を涌現する生き方の大切さを教えるのが、日蓮大聖人の仏法です。
その「現実」とは、決して信心の実践の場面だけではありません。
仕事や生活も、仏の境涯を開いて行くきっかけととらえるのが、大聖人の仏法の正しい信心です。
職場も、家庭も、そして地域も、私達のいる場所すべてが、実は、自身の境涯を広げる為の舞台なのです。
私たちが信心をしているということは、あくまでも「信心即生活」のためであります。
観念論でもなければ、精神修養のためでもありません。
大聖人は「一切の法は皆是れ仏法」とお説きになっていますが、これを現代的に申せば、「信心即生活」という事です。
であるならば、私達の行動は、社会人として、人間として、誰が見ても納得するというものでなくてはなりません。
【生活法】
現実に打ち勝つ為の仏法


