【五重の相対】④本迹相対
【真実の成仏】
永遠に民衆を導き続ける仏
これまで、法華経がすべての人の成仏を明かした最高の経典だと教わりました。
法華経は、全部で二十八品から成り立っています。
「品」とは、「章」の事です。
この二十八品の中で、教義上、重要なのが方便品第二と寿量品第十六なのです。
方便品には、万人が成仏できる、と言う真理が説かれているのです。
寿量品には何が明かされているのでしょうか。
寿量品には、釈尊の仏としての寿命は永遠であることが説かれています。
経文には次のようにあります。
多くの人は、私(=釈尊)が釈迦族の王宮を出て、(王子の立場を捨てて)出家し、修行して、伽耶という街の近くの菩提樹の下で成仏したと思っているであろう。
しかし、そうではないのだ。
私は、実に、五百塵点刧という、皆の考えも及ばないはるか昔(久遠)に、すでに成仏していた(趣旨)
釈尊は今世で悟りを得たのではなく、ずっと昔から仏だったと
法華経前半までの諸経では、釈尊はインドで王子として生まれて出家し、修行して、菩提樹の下で初めて成仏したと説きました。
この仏の立場を「始成正覚」(しじょうしょうかく)
始めて、成仏、(=仏の悟り)したと明かすことです。
ところが、寿量品で世界は一変します。
釈尊が、想像もつかないくらい、はるか昔に成仏していた事が示されます。
この仏の立場が「久遠実成」
(くおんじつじょう)
「久遠」とは、久しく遠い昔、の意味です。
ところが、もっと驚くべきことがあります。
釈尊は続いて“それ以来、この苦悩の世界や他の無量の国土で無数の人々を教化してきた。
このように私の寿命は無量であり、常住(常に存在する)にして不滅である,,(趣旨)と説いたのです。
成仏してから永遠に人々を教え導いてきた、本当に偉大な仏様です。
そこに始成正覚の仏の限界も示されているのです。
実は始成正覚の仏は、入滅(仏の死)すると涅槃(苦しみの無い理想の境地)に入って、再びこの世に出現しないのです。
始成正覚の釈尊もそうですが、法華経以外で説かれる阿弥陀仏なども皆そうです。
そうすると、私たちも現実世界とかけ離れた、仏がいる特別な世界に行かないと成仏できなくなります。
しかし、真実の仏は、そうではありません。
人々が迷い、苦しむ、この現実の世界で、成仏の法を説き続けるのです。
いわば、真の仏とは、仏となってからも人々の中に入って、永遠に民衆を導き続ける存在です
永遠に戦い続けるのです。
私たちの住む、この現実の世界を離れて、仏国土という真の理想の世界はないと説くのが寿量品です。
今までは理想の国と言いと、遠い場所にあると思っていました。宗教は、皆そうした教えを説いていると思います。それに比べて法華経は、画期的な教えです。
それだけではありません。
寿量品には、〝私が、もと菩薩の道を実践して成就したところの寿命は、今なお尽きない〟(趣旨)とあります。
仏になってからも九界の生命を断じ尽くしてはいないということです。
どこまでも、私たちの現実世界の中で、十界をフルに回転させて戦い続けるためです。
久遠実成によって、本当に成仏の考え方が180度、転換しました。
この教えが、「五重の相対」の四番目(本迹相対)です。
法華経二十八品の前半十四品を「迹門」、後半十四品を「本門」と言います。
そして、迹門より本門が優れていることを示すのが「本迹相対」です。
本とは「本来の境地」、迹とは、「影、 跡」という意味で、久遠実成の仏が本仏、始成正覚の仏は迹仏、いわば、仮の仏となります。
譬えて言えば、本仏が夜空に輝く本物の月、迹仏が池に映った月です。
また、本門とは、釈尊が本仏の、すなわち仏として真実の境地を顕した法門、教えのことです
迹門とは、迹仏(仮の姿の仏)が説く法門、教えということです。
法華経は、「万人を救うために仏法を語り、弘め続ける姿こそ、仏の真実の境涯である」ことを示しているのです。
真実の仏と同じ生命が、私たちの中にもあると説くのが仏法です。
そして、寿量品には、私たち自身の生命の真実に目覚める力が秘められているのです。
【五重の相対】④本迹相対
【真実の成仏】
永遠に民衆を導き続ける仏


