【法華経のあらすじ】
皆が成仏できる!
だから現実に皆を仏に‥‥
その2
【釈尊と法華経】
さっそく前回の続きから始めましょう。
説法の聴衆は、多宝如来を、ぜひ見てみたいとお願いします。
しかし、その”舞台,,を整えるためには、ありとあらゆる世界、つまり全宇宙の至る所にいる仏が集まらなくてはなりません。
そこで、釈尊は、国土を清らかにして、無数の仏を呼び寄せ、宝塔の扉を開き、中に入って多宝如来と並んで座ります。さらに、人々を空中に浮かび上がらせます。
ここから、空中(虚空)での説法が始まります。
空中の説法なので虚空会の儀式なのです。
虚空会では、釈尊の入滅後、とりわけ末法に、だれが法華経を広めるのかを主題(テーマ)として、その使命を、真実の弟子に託す儀式が行われていきます。
宝塔品では続いて、仏滅後の悪世に法華経を説くことが難事中の難事であるこもを強調しています。
具体的には、乾いた草を背負って火のなかに入っても焼けないなど、到底できそうにない九つの事柄を挙げて、それらは、仏の滅後に法華経を弘めるなど六つの事柄に比べれば、まだ簡単だというのです。
それほど、釈尊の滅後に法華経を弘めることが困難だというわけです。
それだけの難事であっても、人々を救うために法華経を掲げて進め、と呼びかけているのです。
さらに、提婆達多品第十二では、法華経以外の経典では否定されていた「悪人の成仏(提婆達多の成仏)」「女性の成仏(竜女の成仏)」も説かれます。
法華経はそれだけ素晴らしい功徳があると確認できたら、なおさら滅後に弘めないといけない、そういう自覚も増したことでしょう。
これをうけて、勧持品第十三では、菩薩や声聞たちが法華経の弘通を誓います。
特に菩薩たちは、たとえ強力な迫害者(三類の強敵)が出現しても、釈尊滅後の悪世に、断じて弘教(法華経を弘めること)を貫いていきますと誓います。
現代に、法華経を弘めていくことは、本当に難しいことが、分かってきます。
しかし、これだけ無数の菩薩たちが弘通の誓いを述べても、釈尊は許可しません。
そして、従地涌出品(じゅうちゆじゅつほん)第十五で釈尊は別の無数の菩薩を大地の下から呼び出します。
これが地涌の菩薩です。その数は、六万恒河沙、すなわちインドのガンジス河の砂の数の六万倍もの数です。
そのリーダーが、上行・無辺行・浄行・安立行の四人の菩薩です。
そして無数の菩薩たちこそ釈尊自身が過去からずーっと、教え導いてきた菩薩です。
初めてこのブログを読まれる方々は、不思議と思っていることではないでしょうか。
過去からずーっと、釈尊が教え導いてきたと。通常では、釈尊がインドのガヤ郊外であの菩提樹の木の下で、悟りを開いてからわずかの間に、どうして、これだけの無数の菩薩を導くことができたのか。
説法の聴衆も同じ疑問を抱きます。
釈尊よりも威厳があるような無数の菩薩を、いつ、どこで、教え導いてきたのか。
その答えが、如来寿量品第十六で明らかにされる釈尊自身の本地、すなわち「仏としての本来の境地」です。
この寿量品で、釈尊は今世で初めて成仏したのではなく、五百塵点劫という計り知れない過去に、すでに成仏し、以来、現実世界で人々を導き続けてきた寿命長遠の仏であることが明かされます。
これが、久遠実成(くおんじつじょう)<久遠の昔に成仏したこと>です。この久遠実成こそ寿量品の教えの要です。
釈尊はそれまで、インドで王子として生まれて出家し、修行して初めて成仏したと説かれていました。
この仏の立場を始成正覚(しじょうしょうかく)といいます。
これに対して、久遠実成の立場こそ「仏としての本来の境地」すなわち「本仏」の姿です。
この真実の仏に対して、始成正覚の釈尊は「迹仏」(しゃくぶつ)となります。
迹とは’’影,,や’’跡,,という意味です。
そして、真実の仏の教えとなる涌出品第十五以降の十四章を「本門」、迹仏による説法が続く安楽行品第十四までを「迹門」といいます。
前半が迹門、後半が本門ということです。
ブログ制限文字数の関係上、続きは次回となりました。
ご視聴ありがとうございました。
次回も宜しくお願い致します。
【法華経のあらすじ】
皆が成仏できる!
だから現実に皆を仏に‥‥
その2


