仏縁を結ぶ
「友情」を広げれば「境涯」も広がる
日蓮大聖人の仏法は「下種仏法」です。
種を蒔くこと、種を植えることが、一番、大切です。
友人の心田に成仏のための種、つまり「成仏のための教え」を植える事、これを「下種」と言います。
これが、一切の出発点です。
種を植え無い限り、発芽も成長も有りません。
ブログでの対話は全て、「下種」の活動になります。
ですから「下種」そのものが仏の使いとしての行為なのです。
大聖人は、妙法を聞いた人が、その教えを信じられず、仮に正法に反発しても、後に、必ず、成仏出来ると仰せです。
例え、直ぐに正法を信じる事が出来無くても、妙法を聞いた事によって生命に下種を受けた人は、種子からやがて芽が出る様に、いつか必ず正法を信じる時が来るのです。
友人に妙法を語り、仏法を求める心を起こした場合を「発心下種」と言い、それに対して、例え友人が心を起こさなくても、妙法の素晴らしさを聞いた事を「聞法下種」と言います。
発心下種でも、聞法下種でも、友人が妙法を聞いた事に変わりはありません。
それによって、友人は、いつか必ず成仏出来るのです。
私達の生命には、もともと仏の生命が有ります。
しかし、ほとんどの場合、その仏の生命が迷いの汚れに覆われ、輝きが発揮されて無い訳です。
私達が妙法を説いて、相手の生命に仏の種子を植えていく「下種」によって、相手が自身の仏性(=仏になるうる可能性)を発動させて行く事になります。
いわば「下種」が、相手の仏性を開く働きかけになるのです。
私達が信頼と友情を広げていく事が、そのまま仏法の実践になります。
大聖人は「仏種は縁によって起こるものです。このゆえに一仏乗(=法華経)を説くのです」と仰せです。
私達の正義と真実を語るという仏の縁に触発されて、友人は成仏への軌道を進んで行けるのです。
それだけ尊い行為ゆえに、功徳も大きいのです。
また、対話の広がりは、友情の証でも有ります。
仏法は、人間の可能性を、何処までも信じ、その可能性を花開かせる具体的方法を教えるものです。
小さな自分のカラに閉じこもった生命。そこには、躍動がない。真の創造も喜びもない。ゆえに生きた知性の深まりも、価値ある行動の広がりもないのです。
ところが一方、人間への行動を起こす。友と会い、語る。
一緒に悩み、考える。すると心中には、限りない慈しみと知恵がわく。それが思いきった実践となっていく。いつしか生命は、ダイナミックに回転を始める。「友情」が、生命にみずみずしい触発を与えているのです。
仏縁を結ぶ
「友情」を広げれば「境涯」も広がる


