【謗法呵責】
正法を誹謗する勢力は許さない
前回のブログで、「善と悪」について学んで、「極悪と戦うことが極善」であることがよく分かりました。
悪と戦うことは、仏法者の重要な実践なのです。
日蓮大聖人の仏法では、人々を苦しめる謗法と戦うことを説きます。
謗法とは「誹謗正法」(ひぼうしょうほう)、すなわち正法を誹謗することをいいます。
「誹」も「謗」も、そしること、悪口を言うことです。
また、正法とは「正しい教え」のことです。
具体的には、万人の成仏を示した唯一の経典・法華経、そして末法においては、万人の成仏を実現する南無妙法蓮華経の仏法のことです。
「謗法と申すは違背の義なり」、「毀謗(きぼう)<=そしること>と云うのは即不信なり」と、大聖人が仰せのように、正法に背き、正法を信じようとしない心が謗法の本質といえます。
謗法は、仏の体を傷つけることよりも、さらに重い罪とされ、阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちる原因となります。
誹謗正法は、万人が幸福になりゆく道を閉ざすことだからです。
幸福になろうとする心を自ら閉ざしたり、また多くの人の心を閉ざすようにすれば、不幸になるのは当然です。
それでは、この謗法を誡めるには、どうしたらよいのでしょうか。
「謗法を厳しく誡める」ことを「謗法厳誡」(ほうぼうげんかい)ともいいますが、この謗法厳誡にあって、まず大事なことは、自らが、謗法を犯さないようにすることです。
具体的には、南無妙法蓮華経を唯一無二の信仰の対象とすることです。
分かりやすくいえば、他宗が本尊としている仏像などの類を決して信じたり拝まない、ということです。
信心の姿勢は「唯一無二」ただ一つ、他に二つとして無し、という姿勢でなければならないということです。
そして、謗法厳誡を考えるうえで、重要なのは、自ら謗法を犯さないようにするとともに、時代によっては他の謗法を厳しく責めていく実践が必要だということです。
邪義に執着し、正法を破壊しようとする者に対しては厳しく破折していかなければなりません。
このことを「呵責」(かしゃく)とも呼びます。「呵責」とは、叱り責めることです。
御書に「謗法の者をただす功徳によって、生死の苦しみを離れることができるのである」とある通りです。
どんな悩み、苦しみをも乗り越えていける仏の境涯を開いていくのは、謗法を責める実践だということです。
戦時中、不幸への道をまっしぐらに進んでいく社会を救うために、正法を掲げて断固、謗法と戦われたのが、M先生です。
国家神道が一国の精神的支柱とされ、宗教統制が厳しく行われていた時代です。
そうしたなか日蓮正宗もまた謗法厳誡の精神を忘れ去ったのです。
昭和十八年六月、M先生は、宗門から神札を受けるよう、弟子に指導してはどうかと申し渡されます。
軍部当局の迫害を恐れた宗門が、M先生に妥協することを求めてきたのです。
これに対し、M先生は神札の受け取りを拒否。「謗法厳誡」「謗法呵責」という大聖人の御精神を守り抜かれたのです。
結局、すでにこの時点で、大聖人政党の信心は、M先生とその弟子たちだけだったのです。
民衆救済のために、極悪を責め続け、謗法を呵責する行動に、大聖人直結の信心と実践があるのです。
大聖人は仰せです。
「速に謗法の者を治す可し若し爾らずんば無尽の祈請有りと雖も災難を留む可からざるなり」
読み仮名
「速(すみやか)に謗法の者を治(じ)す可(べ)し若(も)し爾(しか)らずんば無尽(むじん)の祈請有(きしょうあ)りと雖(いえど)も災難を留(とど)む可からざるなり」
すみやかに謗法の者を対治しなさい。もし、そうしなければ無量の祈りがあっても、災難はとまらない(祈りは叶わない)と。
どんなに祈っても、謗法を対治しなければ、不幸は克服できず、祈りは叶わない。
これが御書の仰せなのです。ゆえに、謗法の悪縁を対治するまで、断じて戦い続けて、願いを叶えていくのです。
このあと大聖人は、「謗法の僧を厳しく対治することは罪になるか」との問いを設けられ、「当に苦治すべし尚罪有ること無けん」(在家の者等は悪侶を)必ず厳しく対治しなさい。
まったく罪などないと経文(涅槃経)を引いて明快に断言されています。
「苦治」すなわち仏敵が苦しむほど厳しく対治してこそ、祈りは叶う。
泥を捨ててこそ、清水が飲める。雲を払ってこそ、太陽の光を浴びられる。
ガンは切除してこそ、薬も効き、健康体になる。
極悪は、徹底して強く責めねばならない。
大聖人の烈々たる謗法呵責の御精神を深く拝するがゆえに、世界192ヶ国の大聖人信者たちは、悪縁を責めぬいている。
ゆえに、功徳もいやまして大きく、早く出ている。これが仏法の不思議なる力用なのです。
【謗法呵責】
正法を誹謗する勢力は許さない


