【末法広宣流布】
「自他の仏性」を信ずる信念の拡大
偉大なる釈尊も、大聖人も、「広宣流布」を根本の目的として、民衆救済に生き抜きました。(=広宣流布とは、広く宣べ、流布すること。)
「広宣流布」それは、仏の大願です。
一人ひとりを救い、世界の平和と繁栄を築く、これが仏の最大の願いです。
その仏の願いが結晶した最高の経典が法華経です。
法華経には、こうあります。
「私(=釈尊)が亡くなって後、『後の五百歳』に正法を全世界に広宣流布して、断絶させてはならない」
その理由ですが、万人の成仏を説き明かした教えは、法華経しかありません。
この法華経の教えが失われれば、「万人の成仏」への道が閉ざされてしまうからです。
「後の五百歳」とは!
釈尊滅後の移り変わりを五百年ごとに区分した考えがあります
そして、五番目の五百年後を末法といいます。
末法とは、釈尊の仏法が混乱し、それまでの教えの救済力が失われていく時代です。
それだけでなく、人々の生命が濁り、社会においても争いが絶えない時代です。
その時代を、どう救っていくかが、法華経の真のテーマになっているのです。
以前、五重の相対の「種脱相対」で学びましたが、法華経 寿量品の文底に沈められた南無妙法蓮華経という根源の法によって、末法の民衆を救っていけることを、日蓮大聖人が発見されたのです。
前にも話しましたが、三類の強敵に悟られ無いよう、釈尊が智慧を絞って、法華経の中に、埋めていたのです!
末法の混乱の時代を根源的に救う「法」を大聖人が弘められていったのです。
末法とは、恐ろしく「争いの時代」です。
あらゆるものが争いへと流されていく時代です。
その激流に抗する力は、「自他の仏性を信ずる」という強い信念です。
そして、その信念の実践化としての「人を敬う」行動以外にありません。
この信念と行動の拡大が「広宣流布」にほかならないのです。
すなわち、末法は、人々が「生命の根本的迷い」(無明)に支配されて、簡単には善を善として受け入れられない時代です。
そのために、人間と人間が信頼し合えず、相互「不信」が増幅し、争いと対立の方向へ、つまり、悪へ悪へ押し流されてしまうのです。
その最たるものが戦争です。
そうした「争いの時代」の激流を押し返すには「自他の仏性を信ずる」しかないということです。
「仏性」とは、仏の性分(もともとの性質)のことであり、仏になる可能性のことです。
その仏性が自分にも他人にもあると信ずることが、仏法の悟り(法性)であり、それを信じられないことが迷いの根源(無明)となります。
そして、私たちの生命には、この法性と無明が、ともに具わっています。
だから、私たちは、妙法を根本として、無明を破って、法性を顕していくのです。
いわば「根本の悪」「根本の迷い」を破って、「根本の善」「根本の悟り」を現していくということです。
そのために、自分にも他人にも仏性があることを「信ずること」、そして、仏性を現実に顕していく具体的な実践が大切になるのです。
それは、お題目を自身の生命に、届けることです。
そして、広宣流布は、決して遠くにあるものではありません。
目の前で悩み、苦しむ人々に、「自他の仏性」のすばらしさと、その仏性を御本尊によって顕していけることを訴えていく。(=御本尊とは、平たく言えば、生命に具わる仏界の事)
その人の「生き方」、社会の底流にある「生命観」を変革していくことです。
一人ひとりの人を、どこまでも大切にしながら、対話によって「生命の根本の迷いを打ち破る善の生き方」を広げていく。
確実に、人類を「善」の方向へ、つまり幸福と平和へ、と導いていく、それが広宣流布なのです。
人間のエゴイズム、魔性を打ち破り、人間性が勝利していく時代をつくるには、仏性による以外にない。それは、生命の根本的な迷いである『元品の無明』を断ち切る戦いだからです。
大聖人は仰せです。
「元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか」
仏性によって、内なる「仏」の大生命を開き、人間自身を変革する広宣流布なくして、解決はありませんと。
広宣流布とは、一個の人間の人間革命を機軸にした、総体革命なのです。
仏法の生命尊厳の哲理と慈悲の精神を、政治、経済、教育、芸術など、あらゆる分野で打ち立て現実化していく作業といえます。
そして、科学も、医学も、法律も、さまざまな制度も、人間の創りあげた全てのものが、人間の幸福のために寄与し、価値を創造していく、社会をつくる、それが広宣流布の目的です。
【末法広宣流布】
「自他の仏性」を信ずる信念の拡大


