【教学と法華経】21.釈尊と大聖人と同じ生命が万人の生命にもある❣️私たちにも流れている生命。

教学と法華経

【南無妙法蓮華経の唱題】
生命の限りない可能性の開花へ

前回までに、一念三千について学んできました。

その「一念三千」論の、いわば‘‘結論,,が、大聖人の仏法にあっては、南無妙法蓮華の御本尊になるということですが。

そのことは、次回に学ぶ「御本尊」の章であわせて学ぶことで、より理解を深められると思います。

その前に、今回は筋道を整理しておきたいと思います。

日蓮大聖人は三十二歳の時に、「立宗宣言」(建長五年<一二五三年>
428日)をされます。

具体的には、南無妙法蓮華経の題目を唱え始め、そして人々にも唱題を勧めながら、民衆救済実現への一歩も退かぬ言論闘争を開始されました。

このことは、人々の生命が‘‘根本の迷い,,(無明)に覆われる「末法」の時代にあって、実に画期的なことでした。

末法における万人の成仏の道が開かれた、ということです。

そもそも、天台大師によって確立された一念三千の法門は、確かに‘‘成仏の根本法,,です。

しかし、人々の仏法を理解し、実践する能力が、ますます衰えている末法にあって、天台大師が実践したような観念観法の瞑想などの修行は、ほとんど不可能です。

例えば、そうした瞑想の修行は、実際には、人里離れた山林にこもって修行するほかないのですが、それでは万人が容易に実践し、成仏の道を歩める教えにはなり得ません。

そこで、日蓮大聖人は、一念三千の意義を踏まえながらも、だれもが容易に実践できる修行として、南無妙法蓮華経のお題目を弘められていったのです。

では、一念三千と南無妙法蓮華経との関係はどうなっているのでしょう。

法華経も、その法華経に基づいて確立された一念三千の法門も、そして大聖人の弘められた南無妙法蓮華経も、人々の成仏の道を開く教え、という意味において、すべて本質は同じです。

しかし、結論だけ言えば、法華経に示された一念三千の法理を、末法において現実のものとする、事実の上に現すのは、南無妙法蓮華経の唱題行しかありません。

妙法は仏を仏たらしめた、すなわち、あらゆる仏を成仏させた‘‘根源の法,,です。

その法が、どんな人の中にもあると説くのが仏法です。

大聖人は「この人生において、必ず仏の最高の悟りを得ようと思うならば、『あらゆる生命に本来備わっている妙(たえ)なる真理』を観じなければならない」と教えられています。  

そして、「『あらゆる生命に本来具わる妙なる真理』とは、南無妙法蓮華経である。

ゆえに、南無妙法蓮華経と唱えれば、『あらゆる生命に本来具わる妙なる真理』を自身の生命の中に見ていることになる」とも仰せです。

‘‘自身の胸中に無限の可能性が秘められている。だから、自分が変われば、自身を取り巻く環境だって、いくらでも変えていける,,。

この限りない希望の哲学が、一念三千であることは前に説明した通りです。

この無限の可能性を知るがゆえに、‘‘だれもが、この人生において真実の幸福を実現できる!,,という大いなる希望を抱いて、人々に法を弘め続けていく人が仏です。

言い換えれば、人々が自分自身の内面に秘められた無限の可能性を知らず、さまざまな苦悩を前にどうすることもできずに苦しんでいるからこそ、仏は、万人を「内なる妙法」に目覚めさせて、限りない可能性を発揮させていこうとするのです。

つまり、だれもが本来、妙法そのものの存在であることに目覚めさせていくのです。

自身がそのことに目覚めた仏は、今度は、人々を、そのことに目覚めさせるために、行動し、語り続けていきます。

そして、先ほどの大聖人の仰せに戻ると、「妙なる真理」とは妙法であり、一念三千の法理にほかなりません。

引用した一節は「一生成仏抄」という御書にあります。

その御書を通して、大聖人が言わんとされていることは結局、南無妙法蓮華経と唱えることが、自身に秘められた無限の可能性を開き顕していくことになる。

すなわち、一念三千の法理をわが身に体現していく修行は、末法においては南無妙法蓮華経の題目を唱えることにほかならない、ということなのです。

さらに言えば、南無妙法蓮華経と唱えることで、自身の生命に具わる「仏性」(もともとの仏の性質)を開き顕し、自身の祈りと行動で、一切をより良く変えていくことができる、ということです。

そのうえで私たちの実践にあって、一番大事なことは「信心」です。

たとえば、この「一生成仏抄」という御書の中で強調されていることは、そうした無限の可能性は自分の中にある、ということです。すなわち、自分の中には可能性がない、などとは断じて考えてはいけないのです。

仮にこの仏法を持っていても、自分の中に妙法があると信じられなければ生命には何の変化もあらわれません。

したがって功徳もないのです。

すなわち、妙法を信ずることは、自分の‘‘内なる可能性,,を信ずることと同じでなくてはならないのです。

大聖人はさまざまな御書で繰り返し「信心」の大切さを強調されています。

‘‘だれもが妙法そのものの存在である,,‘‘だれもが自身の限りない可能性を最高に開花できる,,。

自他の生命に、そうした偉大な仏の生命が具わり、仏の生命を現せると、どこまでも信じ抜くこと。

それが私たちの信仰の出発点なのです。

大聖人の門下に、富木常忍(ときじょうにん)という信徒がいました。

大聖人が彼に送られた書の中に、末法の正しい修行を述べられた「四信五品抄」(ししんごほんしょう)があります。

その中で大聖人は、末法の修行は「信の一字を詮(せん)と為(な)す」。

信の一字を究極とすると教えられています。

大聖人の仏法の肝要は、形式ではない。

「心」である。

「信心」が根本である。

そして御本尊を信じて、「唱題」する修行に、すべての修行が含まれていると、大聖人は仰せである。

「南無妙法蓮華経」という題目に、法華経の一切が含まれているから、唱題行が、そのまま成仏の直道となる、と。

さらに、この題目の深い意義がわからなくても、題目の功徳を、そのまま身に顕していくことができる、と教えてくださっています。

私たちの唱える題目は、法華経の心であり、根本的には大聖人の魂そのものなのである。

したがって、その意味がわからなくても、御本尊を信じて題目を唱えるとき、大聖人の魂にふれていくことができる。

わか身に、南無妙法蓮華経の大聖人の生命を涌現させていくことができる。

【南無妙法蓮華経の唱題】
生命の限りない可能性の開花へ

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