【法華経】五百弟子授記品(第八章)授学無学人記品(第九章)その2
「救われる人」から「救う人」へ
法華経と共に
両品とも、題名にも明らかなように、授記が主題です。
声聞への授記の、総仕上げの位置にあります。
天台大師も、方便品(第二章)から人記品に至る八品を、迹門の正宗分(法華経前半十四品の中心部分と位置づけています。
この八品は、法理的に言えば開三顕一が説かれているわけですが、ドラマとしては、声聞への授記が中心と言えます。
声聞たちの「目覚めのドラマ」。
このドラマの意義が分からなければ、開三顕一の法理も、本当の意味で分かったとは言えないでしょう。
声聞たちの目覚めとは何か。
それは、結論的に言えば、「救われる人」から「救う人」に変わったということです。
人々を断じて救いきるという「大願」に目覚めたのです。
声聞たちは、悪世の苦しみから逃れたい、救われたいという思いで仏の教えを求めた。
仏は、その心を知って、苦しみから脱却する道として、声聞たちに、まず小乗の教えをといた。
彼らの失敗は、その教えに執着してしまったことでした。
信解品(第四章)では、声聞たちが、「われわれは、生死のなかでさまざまな苦しみを受けて迷い、無知であったために、小法を求め執着した」と告白しています。
小法とは小乗の教えのことです。
しかし、仏の本意は小乗にはなかった。
弟子たちをたんに「救いを求める人」で終わらせたくはなかった。
そこで、仏の本意を明かす法華経を説くのです。
求めるべきは、小乗の悟りではなく、仏の智慧である。
すべての人に、仏の智慧を得させて、仏と同じように、自在に人を救っていける境涯へと仕上げたい。
それが仏の本意である、と。
「仏と同じ」とは、師弟不二です。
法華経を聞いて、自分は、仏と同じく「救う人」でありたいという「師弟不二の願い」に立った人が、法華経の「菩薩」です。
その誓願は同時に「仏子の自覚」でもある。
自分は、仏の子である。だから智慧という仏の財産を全部受け継いでいけるのだという自覚です。
先の話、ラジオでの、菩薩行にも通ずる戦いの話をしましたが、声聞たちは「仏の声を聞く」声聞から、「仏の声を聞かせる」菩薩としての声聞に変わった、と言ってよいでしょう。
迹門正宗分の八品は、声聞たちが、このように人間革命していくドラマです。
これまでは、舎利弗そして四大声聞が、この目覚めのドラマを演じましたが、五百弟子品と人記品では、いよいよ、すべての声聞が舞台に躍りでてきます。
【法華経】五百弟子授記品(第八章)授学無学人記品(第九章)その2


