【民衆救済】
悪を責め続けてこそ最高の善
[悪と戦う]
日蓮大聖人の仏法の根本目的は、「万人の幸福の実現」です。そのための広宣流布の戦いは、民衆の幸福への道を閉ざす「悪」との絶え間ない闘争です。ここでは、仏法上の悪と戦う意味、悪の本質や構図などについて学びます。
人々の幸福の実現へ行動していくのが、日蓮大聖人の仏法の教えです。
そして、この仏法の特徴は、友の悩み、苦しみを取り除く慈悲の心にあるのです。
大聖人は仰せです。
「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」
ありとあらゆる人々のさまざまな「苦しみ」は、一つとして、日蓮大聖人の「苦しみ」でないものはない、という意味です。
この御文には、全民衆の幸福を願う御本仏の大慈悲が込められています。
そして、この「民衆の幸福」「民衆救済」こそ、日蓮大聖人の根本精神です。
そして、慈悲を生き方の根本とするために、具体的にどんな行動が必要となるのか、ここから勉強して行きたいと思います。
慈悲の行動は、「抜苦与楽」です。
苦を取り除き、楽を与えることです。したがって、仏は、民衆の幸福実現を阻もうとする一切の悪と、戦っていくのです。
これまで何度も学んできたように、仏法の実践にあって大事なことは、仏の魔との戦いです。
仏の軍勢の勢力が強まれば、それだけ多くの人々を幸せにしていけます。
反対に、悪に負けてしまっては、善を拡大することはできません。
万人の幸福の実現のために、それを阻む悪と戦いながら、その幸福を実現するための「根本の善」を弘めていくのが仏の実践です。
つまり、人間社会の繁栄も衰退も、結局、一人ひとりの生命観で左右されるから、その生命観を変えていくことがカギになるのです。
「立正安国論」に大聖人は仰せです。
「悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや」
また「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」
‘’悪僧を誡めなければ、どうして善を為すことができようか,,
’’社会の一凶である念仏を禁ずることが、為政者の最優先課題である,,という意味です。
鎌倉時代、知識階層として、権力者にも、当然、社会にも大きな影響力をもっていたのが、宗教者です。ところが実際には、そうした宗教者が権力者と癒着して、自分たちの安泰だけを図り、民衆が幸福になる道を閉ざしていたのです。
そうした宗教者は、民衆にとっての敵であり、社会の不幸の根本原因だということです。
だからこそ、大聖人は生涯、民衆を不幸へと追いやる悪僧や、「人間を軽賤する者」たちと戦い続けられました。
悪を責めることが善、そして、民衆の幸福を願うならば悪の根を断ち切らなくてはならない。
それが、大聖人の一貫した実践です。この「破邪顕正」<=邪説を破り、正しい道理を顕すこと>こそ、民衆救済の「大慈悲」と表裏一体の日蓮仏法の根本精神です。
確かに、大聖人は、民衆を苦しめる魔性の宗教者を、責め続けられていました。
日蓮大聖人は、御生涯を通じて、「人間生命に潜む根源の悪」「生命に内在する魔性」「一切の元品の無明」と戦い続けられました。
「今に至るまで軍やむ事なし」とも仰せです。
民衆を苦しめる「悪」は結局、だれの生命にもある「悪」の現れです。
そして、その悪を打ち破っていくものは、人々の生命と生命観を変革していくための「対話」です。
日蓮大聖人の御精神を受け継ぎ、どこまでも「対話」によって民衆の幸福の実現を目指しているのが。世界各国で、日蓮大聖人の仏法を弘めている人達に他なりません。
悪と戦う「破折精神」こそ、仏法の真髄である。日蓮精神である。
日蓮大聖人は、「立正安国論」の中で、国家の災難、国民の不幸の原因がどこにあるのか、明快に述べておられる。すなわち、大聖人は、「今の世は、皆が正法に背き、人々がことごとく、悪法に帰依しているゆえである」と喝破されたのです。
そして、「このことは、声を大にして言わなければならない」と、時の最高権力者を真っ向から破折していかれた。
善良な民衆を陥れる、悪辣なデマの策謀は、断じて許さない!
この雷鳴のごとき怒りをもって、悪を暴き、追いつめ、打ち砕いてこそ本物なのです。
牧口先生は言われています。
悪人の傍若無人の振る舞いに、善人が大変な迫害を受けつつあるのを、羊の群のような小さな善人が、何もしないで、ただ傍観していることは、国家の将来の恐るべき禍根である。言うべきときに何も言えない、羊の群れになるな。小さな善人になるな。そういう人間がいれば、国家の将来は危うい。
牧口先生が警鐘を鳴らしたごとく、軍国主義に支配された当時の日本は、まっしぐらに、破滅の道をたどった。それは、厳然たる歴史の事実です。
【民衆救済】
悪を責め続けてこそ最高の善


