【凡夫即仏】
法華経の真髄を大聖人が
その身で証明
前回、日蓮大聖人が法華経に説かれる通りの数々の大難にあわれた「法華経の行者」であることを学びました。
そして、大聖人が大難を受けられたことの意義は‘‘法華経を身をもって読まれた,,ということだけにとどまらない、とありました。
では、順番に見ていきましょう。
民衆救済に立ち上がられた大聖人は数々の大難にあわれます。
松葉ヶ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難を乗り越えられ、そして、大聖人を亡き者にしようとする最大の危機が襲いかかります。
竜の口の法難です。
大聖人は、この斬首の危機にも敢然と打ち勝たれました。
この竜の口の法難で、大聖人は凡夫の身に、本来の仏としての御境地を開き顕されました。
これが、大聖人の発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)<=迹を発いて本を顕す>です。
ここで発迹顕本の「本を顕す」とは、「本地(=本来の境地)を顕す」という意味です。
凡夫というのは、普通の人間のことです。
私たちと変わりない同じ人間の身に、仏の境涯を開かれたということです。
人間に具わる本来の仏の境地を顕されたのであって、当然、人間から、かけ離れた特別な存在になられたわけではありません。
凡夫そのままの身に最高の人間性を開き顕されたのです。
言い換えれば、大聖人は大難を忍ぶ大生命力として、また、末法万年の民衆を救う大慈悲として、御自身の凡夫の身に仏界を顕されたのです。
ゆえに、発迹顕本されてからも、あらゆる大難を乗り越えて民衆救済に行動し続ける姿を変えられたわけではありません。
‘‘だれもが、そのまま仏になれる,,‘‘最高の人間性の力を現すことができる,,。
これが、繰り返し学んできた法華経の‘’真髄,,でした。
大聖人は「凡夫即仏なり・仏即凡夫なり」と仰せです。
法華経の説いた真髄を‘‘凡夫が、そのまま仏である。仏といっても凡夫以外にいない,,と述べられているのです。
法華経に説かれる通り大難に何度あおうと決して退かず、そのすべてに耐え抜いて、大聖人は正法を弘め続けられます。
その‘‘勝利,,の姿をもって、大聖人御自身が、一人の凡夫の生命に本来具わる仏界の偉大な力を涌現しうることを証明されたのです。
大聖人が‘‘法華経は真実である,,と証明され、そして、万人の成仏を実現する、法華経の肝要の法・南無妙法蓮華経を顕されたことで、末法における全人類の成仏の道が開かれたのです。
そのことを、法華経から見れば、法華経に説かれる上行菩薩(地涌の菩薩のリーダー)とのお立場を示しながら、末法の広宣流布に先駆されたのが、日蓮大聖人だということです。
釈尊から広宣流布の使命を託され、その使命の遂行に生き抜くのが地涌の菩薩です。
大聖人御自身が身をもって、法華経の実践を通して示されたのは、まさに、その地涌の菩薩の姿そのものです。
行き詰まることの決してない妙法を実践しているから、地涌の菩薩は、どんな大難をも乗り越えて、妙法を説き弘めていけます。
いうまでもなく、日蓮大聖人は末法の御本仏ですが、同時に大聖人は私たちの成仏の手本となる行動を示してくださったのです。
そして、その「手本」のまま、大聖人に連なって、妙法を末法に広宣流布していく皆さん、だれもが地涌の菩薩として、数々の難を必ず乗り越え、成仏の境涯を顕していけるのです。
どこまでも凡身のうえに、自受用身(じじゅゆうしん)<=根源の法を覚り、その功徳を自在に用いることが出来る仏の身をいう>の生命が顕現していくのです。
ここを見誤ると、成仏とは、人間を離れた超越的な存在になることだという誤解が生じる。
日蓮大聖人も凡夫の身を捨てられたわけではない。
凡夫の身そのものに久遠の仏の生命が赫々と顕れている。
もう一つ、大事なことを言いますと。
それは、この原理は私たちにとっても同じである、ということです。
苦難を越えて、信心を貫き、広宣流布に生き抜く人は、発迹顕本して、凡夫の身のままで、胸中に大聖人と同じ仏の生命を涌現することができるのです。
日寛上人は次のように仰せです。
「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」
「人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖大聖人と顕るるなり」
「法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」
ありがたい仏法です。
超越的な別な理想人格がゴールだったら、私たちは今世で幸福になることはありえなくなる。
私たちの一生成仏の手本を大聖人が身をもって示してくださったのです。
いかなる苦難も越えて、無明を打ち破り、法性を現していく自分を確立することが発迹顕本です。
大難を受けるほど、仏界の生命は輝きわたっていく。
そういう自分を確立することが、一生成仏の道なのです。
【凡夫即仏】
法華経の真髄を大聖人が
その身で証明


