【仏法即社会】
現実社会で仏の境涯を開く
この現実社会で、悩み苦しむ人々のために行動して行くのが正しい仏法のあり方と、前回までのブログで学びました。
その「行動」を裏付けるのが、仏法と社会の関係を説き明かした「仏法即社会」という考え方です。
「即」というのが理解しづらいので、詳しく探究していきましょう。
「仏法」と「社会」、それぞれ別個だと思いますが。
現実の社会や生活を離れて仏法は存在しません。
また、社会や生活の一切の営みは、仏法と違背(いはい)しないという考えです。違背とは〈=そむくこと〉
仏教は全体的にそうなのでしょうか?
いいえ、法華経以外は、そうではありません。「世間の法」と「仏法」を別々にとらえているのが大半です
それに対して法華経では「世間の法が、そのまま仏法の全体」と考えられています。
日蓮大聖人は、こうも仰せです
「天晴れぬれば地明かなり法華を識(し)る者は世法を得可(うべ)きか」
通解
天が晴れるならば、地はおのずから明らかとなる。法華経を知る者は、世間の法をも、おのずから得るであろう。
私たちが生きている現実の社会が大事なのです。
「仏法即社会」ですから、仏法者の実践とは、「社会の中での行動」に他ならない、という事になるのです。
分かりやすく言うと、仕事も、隣り近所との友好も、家庭での振る舞いも、全てが仏道修行であり、仏法者の実践になるのです。
すなわち「社会が、そのまま仏法」ですので、社会の中で、私たちが今、行動している場所すべてが、仏道修行の場となるという事です。
「仕事を『法華経』の実践だと思いなさい」とも大聖人は仰せです。
また、それと同時に、社会での振る舞いを決してなおざりにしない、むしろ、仏法の素晴らしさを証明する場として社会を大切にして行く事が重要です。
御書
「まことの・みちは世間の事法にて候(そうろう)」
通解
真の仏道は世間の出来事の事である。と仰せです。
どこまでも社会と一体なのです。
特に日蓮仏法では、民衆の幸福と社会の繁栄を願う行動を大切にしています。
私たちは、仏界を涌現して、現実世界の中で「世のため」「人のため」に行動して行けるのです。(仏界の涌現とは=自身の生命に呼びかける様に唱題する事)
仏法者の行動は、必然的に、社会の向上へと結びつく行為になる、ということになります。
仏界に具わる「仏の智慧」で社会の出来事の意味をありのままに認識し、その智慧を人々の幸福へ、社会の発展へと生かそうとする。
それが、真実の仏法者なのです。
「仏法は体(たい)のごとし世間はかげのごとし体曲がれば影ななめなり」
仏法すなわち「生命観」が歪んでいれば、それが、そのまま世法の乱れになって表れて来ると大聖人は仰せです。
乱れた世の中だからこそ、今いる、この「現実世界」に真正面から向き合い、民衆の幸福の為に、その現実を、より良く変えて行こうと挑戦する。
「仏法即社会」の法理は、そうした現実変革の生き方を促しているのです。
日蓮大聖人は、「まことの・みちは世間の事法にて候」
「世間の法が仏法の全体と釈せられて候」と仰せです。
仏法と社会は、究極的に一体なのです。
社会のため、民衆のために尽くし抜く行動に、真の仏法の精神が脈打っているのです。
【仏法即社会】
現実社会で仏の境涯を開く


