(法華経と共に)[25]すべての人に、約束された成仏❣️どこまでも、弟子を見捨てない。法華経【第八章 第九章】3

法華経

【法華経】五百弟子授記品(第八章)授学無学人記品(第九章)3

「五百弟子品・人記品」すべての声聞に授記

法華経と共に

それでは、両品の概要を見ておきたいと思います。

まず五百弟子品ですが、この品では最初に、前の化城喩品(第七章)の説法を聞いて歓喜した富楼那に対して、授記がなされます。

富楼那は、釈尊の弟子のなかで「説法第一」「弁舌第一」と言われた人です。

ある時、彼は、伝道の旅に出かけます。

その出発前のエピソードが、経典につづられています。

同名の別人のエピソードという説もありますが、説法第一の富楼那らしい面が示されています。

ある国への弘教を富楼那が申し入れると、釈尊は言います。

「富楼那よ、かの国の人々は、気が荒く、ものの道理が分からず、人の悪口ばかり言うそうだ。彼らは君をあざけったり、ののしるだろう。その時は、どうするつもりか」

富楼那は答えます。

「そうしたら、こう思います。『この国の人々は、いい人たちだ。私を手でなぐったりしないのだから』と」

「それでは彼らが、君をなぐったら、どうする?」

「こう思います。『この国の人々は、いい人たちだ。私を棒でたたいたりしない』と」

「棒でたたかれたら、どうするのか」

「『私を鞭で打ったりしないから、いい人たちだ』と思いましょう」

「鞭で打たれたら」

「『刀で傷つけられないからよい』と」

「刀で傷つけられたら」

「『殺されないから、よい人たちだ』と」

「それでは富楼那よ、かの国の人々に殺されたら、君はどうするのか」

覚悟の弟子は、きっぱりと答えます。

「自ら死を求める人間すらいます。私は求めずして、仏法のために、この貧しく、汚れた身を捨てることができるのですから、大いに喜びます」と。

この答えを聞いて、釈尊は安心した。

「善きかな、富楼那よ、その決意があれば大丈夫であろう。行ってきなさい」

こうして彼はその国で、多くの人を入信させたと伝えられます。

願いを成就したのです。

彼の名前は、「満願子」「満慈子」等と漢訳されているが、その名にふさわしい、満足の人生だったでしょう。

説法第一、弁舌第一と言うと、「話が上手」「弁舌さわやか」というイメージが浮かびますが、五百弟子品のサンスクリット本に「富楼那は四衆に法を示し、教え、ほめ励まし、喜ばせ、法を説いて倦むことがない」とありますように、表面的なテクニック、いわゆる話術の巧みさではありません。

今の経文は、羅什訳で「能く四衆に於いて示教利喜し・・・」とあるところです。

法を説くことによって、衆生を歓喜させる、そこに力点を置いた。

本当に歓喜すれば、人は変わります。

富楼那の弁舌の力の源泉は何だったのか。

一つは、師の教えを何としても弘めたいという「情熱」ではないだろうか。

燃えるような情熱がなくては、どんなに弁舌が巧みであっても、多くの人の心を動かすことはできないでしょう。

そして情熱の源は「確信」です。

また、富楼那の人柄が誠実であったからだと思います。

いわば「真心の人」です。

その真心に多くの人が心を打たれたのではないか。

富楼那は、この品で「法明如来」の記別を受けます。

人々を「法の光明」で照らすという意味であると思います。

富楼那の姿は、広宣流布に励む人々の、栄光に通じる、と言ってよいでしょう。

富楼那への授記を聞いて、千二百人の阿羅漢たちが歓喜します。

釈尊は彼らに授記しようと述べ、そのうちの五百人に授記がなされます。

これが題名の「五百弟子」です。

釈尊の最初の弟子である憍陣如(阿若憍陣如)がその代表です。

阿羅漢とは、小乗の悟りを得た最高位の声聞のことです。

五百人の阿羅漢とは、おそらく釈尊の教団の草創期を担った弟子たちではなかったかと思われます。

他の経典には、釈尊が五百人の弟子を伴って遊行したという話が記されています。

五百人に同じ如来の名前(普明如来)を支えて授記したのも、そのためかもしれません。

なお、残りの七百人への授記はどうしたのかと言うと、必ずしも明確には経文に示されていません。

法師品(第十章)の冒頭で、法華経の会座にいるすべての衆生に授記がなされていまので、そのなかに含められているのではないかと思われます。

次の人記品では、最初に阿難と羅睺羅に授記が与えられます。

阿難は、釈尊の弟子のなかで、「多聞第一」(釈尊の教えを多く聞くことにおいて最も優れている人)と言われ、釈尊の滅後には経典の結集に尽力しました。

また羅睺羅は、釈尊の出家前の実子で、弟子になってからは「密業第一」(人知れず修行に努力することに最も優れている人)と言われました。

さらに、まだ阿羅漢になっていない学・無学の声聞二千人に対しても授記されていきます。

「学」とは有学、つまり、まだ学ぶべきことが残っている者、「無学」とは学ぶことがない、つまり、すべて学び終えた者です。

今の日本語とは、意味が、さかさまです。

本来、無学のほうが偉いのです。

学・無学の違いはあっても、どちらも、まだ阿羅漢の悟りを得ていない声聞です。

要するに、この二品で、修行の到達度に関係なく、すべての声聞に授記されたわけです。

与られた如来の名前(名号)、活躍する時代(劫)と場所(国)は、次のようになります。

富楼那(名号 法明如来)(国 善浄)(劫 法明)

五百阿羅漢(名号 普明如来)

阿難(名号 山海慧自在通王如来)(国 常立勝旛)(劫 妙音徧満)

羅睺羅(名号 蹈七宝華如来)

学無学二千人(名号 宝相如来)

[各、劫・国が不明のところあり]

後の観持品(第十三章)では、釈尊が「我れは先に惣じて一切の声聞に、皆な已に授記すと説けり」と述べています。

声聞への授記、その心は、前にも述べたように(授記品〈第六章〉)、「一切衆生への授記」です。

声聞に、とどまるものではありません。

すべての人が成仏できる。すべての人が、仏の智慧を譲り受けて、「人を救う人間」になれる。

そういう考えが、阿羅漢も学・無学もなく、すべての声聞に授記されるということのなかに示されています。

日蓮大聖人は「二乗の作仏は一切衆生の成仏を顕すと天台は判じ給へり」と仰せです。

一切の声聞は、爾前権教で不成仏とされた。

しかし、法華経に至って成仏を許された。

これは、十界の成仏を明かしたことになるのです。

なぜなら、一人の声聞には十界の生命が具わっている。

ゆえに、一人の声聞に授記したことは、その生命の十界が成仏できるということです。

十界が成仏できるということは、どの界の衆生も成仏できるということになる。

反対に、声聞界が成仏できなければ、菩薩の生命の声聞界も、仏の生命の声聞界も成仏しないことになる。

菩薩も仏も成仏しないのでは、仏法は成り立ちません。

だから「二乗成仏」が仏法の要なのです。

そもそも声聞は、つねに釈尊の周囲にいた、最も身近な人々です。

その人々を成仏させられないのでは、何のための仏法かということになりかねない。

一方、二乗は「焦種」といって、仏種を焦がし亡ぼしているとされる。

そういう二乗も成仏させられるということを通して、一切衆生を成仏させる法華経の力を示したのです。

一切衆生に対して「あなたも仏と同じ境涯になれる」と宣言したのです。

これが、授記の心です。

「御義口伝」に「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは学無学の人に如我等無異の記を授くるに非ずや」とあります。

また「智者愚者をしなべて南無妙法蓮華経の記を説きて而強毒之するなり」とあります。ここのところです。

これが広宣流布の心です。智者、愚者を問わず、妙法を説いていく。

信じる者も信じない者も問わず説いていく。

信じない者も、毒鼓の縁、いわゆる逆縁の功徳で救っていく。

ここに真の授記があるのです。

このことを実践してきたのが日蓮大聖人とその門下の方々です。

【法華経】五百弟子授記品(第八章)授学無学人記品(第九章)3

 次のページは、[26]あなたは、菩薩であり、仏なのです❣️遠い昔に、成仏を願っていた。法華経【第八章.第九章】4

タイトルとURLをコピーしました