(法華経と共に)[34]ありのままの️自分でよし❣️法華経【第十章】衣座室の三軌編 その3

法華経

法師品(第十章)衣座室の三軌編 その3​【法華経】

.「一切法空の座」

法華経と共に

さっそくですが、前回の続きから始めます。

第三に「一切法空が如来の座である」とは、どういうことなのでしょうか。

それは、自在の智慧ということです。すべてはつねに変化している。無常の存在である。空である。そういう世界の諸法実相を、ありのままに見て、何ものにもとらわれない境涯をさしている、と言えるでしょう。

言葉では理解できますが、実際にはなかなか、そういう境地にはなれませんね。

大聖人は「座とは不惜身命の修行なれば空座に居(こ)するなり」と言われています。

不惜身命の行動こそが、一切法空の座に居ることになるというのです。

人間は常として、何かに執着し、とらわれがちなものです。たとえば名声や地位などにとらわれ、それを手放したくないと惜しんでしまう。

それは人間として、ある意味では自然かもしれないが、その執着をあえて乗り越え、身命をも惜しまず戦っていくということが「空座に居する」ことです。

「我が人生を広宣流布のために捧げていこう」というのが信心です。その信心に「空」の極意がある。もちろん、それは命を粗末にするということではない。

自分の尊い生命を、仏のために惜しまず使っていくことです。

その不惜身命から、人を救う智慧も生まれるということです。

身を惜しまぬ自分になることが、人を救える自分になることなのです。

かつてT先生に、「折伏をするというのは、自分自身への折伏にも通じるものですか」と質問された青年がいた。

T先生は「自分自身が南無妙法蓮華経で生きているということです。それ以外に折伏はないのです。手練手管も方法もなにもありません。ただただ、自分は南無妙法蓮華経以外になにもない!と決めることを、末法の折伏というのです」と。

また「自分は南無妙法蓮華経だと決めるのが、最後の折伏です」とも言われていた。

青年に本当のことを教えておこうという、決然たる口調であったと。

「自分は南無妙法蓮華経だと決める」一切法空、そして不惜身命の意義を、ものの見事に表現しきっています。

この言葉を手がかりに、信心の真髄を探求するもよし。そこに、本当の教学を学ぶもよしです。

法師品(第十章)衣座室の三軌編 その3​【法華経】

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