功徳と罰
生活に妙法実践の「利益」が現れる
ここまで「信心と生活」の関係について学んで来ました。
「信心の活動だけ頑張る」のではなく、「社会・家庭でだけ頑張る」のでもなく、両方とも大切にして行くのが、日蓮大聖人の仏法だと理解できました。
信心に励み、その結果、生活にプラスの「価値」が生まれて来なければ、信仰の意味がありません。
では、生活のうえに、どうしてプラスの結果が現れて来るのでしょうか。
身近な例で考えてみましょう。
横断歩道は、青信号で渡りますよね。
交通事故に遭わないためです。
歩行者が、安全に横断歩道を渡れる様に交通の「ルール」が定められているわけです。
「妙法」とは、人間生命と宇宙を貫く根本の法則です。
南無妙法蓮華経と唱える事は、目に見えませんが、その法則に則って行く行為です。
ルールを守れば、横断歩道を安全に渡れた。
それが、仏法で言う「功徳」です。
「功徳」とは「利益」の事です。
反対に、ルールに違反したり、無視すれば、交通事故に遭いかねません。
生活でのマイナスの出来事は、仏法の「罰」にあたります。
幸福を目指して生きていくうえで、どういう「規則」を守るかが、大事になるわけです。
妙法に則る生き方こそ、最高の「善」です。
「善の『行動』そのものに『功徳』は備わっている。決して、他から与えられるものではない。自分自身の生命の中から、自分自身の行動によって、泉の如く湧いてくる。それが『功徳』です」
生活をどんどん良くして行けるのが、日蓮仏法です。
病気や経済苦で悩んでいれば、そうした悩みを克服して行く為に、まず祈っていく。
現実の苦悩を乗り越えて行くための信仰だという事です。
尊上無比の大御本尊の大功徳は、すべて、われわれ凡夫の一日一日の生活のなかに、ほとばしり出ているのであります。
御本尊こそ、人に強き生命力を与え、不幸を根本から救うのであります。
すなわち家なき方に家を、子なき方に子を、親なき方に親を、財なき方に財を、病の方には良医と健康とを与える絶対の功徳の根源があるのです。
祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。という言葉もあり、御本尊の功徳は絶対です。
限りない力が御本尊には、秘められているのです。
私たちは、どういう時であっても、環境に負けずに、この仏法の功力を示して行きたいものです
万人の幸福のために、大聖人の仏法はあります。
自身の幸福と同時に友の幸福を願って、唱題根本に行動して行く時、その実践が功徳となって現れます。
功徳の源は、強盛な「信心」であり、広布への果敢な行動にあるのです。
「現世利益」というと、低次元のように聞こえますが、現実の生活を変革できない宗教では、「力がない」と言わざるを得ません。
「現世安穏」「後生善処」と言って、今世も未来も、楽しく人生をエンジョイするための妙法です。
現実生活のうえの「価値創造」が法華経の魂なのです。
功徳と罰
生活に妙法実践の「利益」が現れる


