【五重の相対】⑤種脱相対その1
【末法の成仏】
日蓮仏法は誰もが 仏となれる根本法
私たちは、法華経を読誦していますが、あくまでも日蓮大聖人の仏法の立場から読んでいるということです。
どういうことでしょうか。
実は、法華経の極理(究極の教え)は、私たちが唱題している南無妙法蓮華経に尽きるのです
日蓮大聖人は「法華経の極理とは南無妙法蓮華経是なり」と仰せです。
そのうえで、方便品・自我偈の読誦には題目の功徳を助け顕す働きがあります。
また、大聖人の仏法を根本として法華経を用いていく、という意義もあります。
くわしくは別の機会に学びますが、そうした意義を幾重にもこめて法華経の方便品・自我偈を読誦しているのであって、一番重要なことは、南無妙法蓮華経の題目を唱える「唱題行」にあるのです。
逆に言えば、今の時代には、法華経だけでは、成仏できないということです。
法華経は大乗仏教の真髄である最高の経典です。
“万人を仏に,,という仏の慈悲が脈打っています。
しかし、時代がたつにつれ、民衆のために仏法を説き弘めた釈尊の心が見失われてしまいます
残されたのは経典だけです。
そのうえ、その経典に説かれていることを、我が身をかけて実践する人も、いなくなっていきました。
だれも実践する人がいなくなれば、どんなに優れた教えでも効力は発揮できません。
仏法では、「正法・像法・末法」という「三時」を説きます。
正法とは、仏法が正しく弘められていく時代。
像法とは、仏法が形骸化していく(形だけになる)時代。
末法とは、仏法が混乱して、その救済力を失って行く時代です
日蓮大聖人は、この末法の人々をどう救うかを考えられたのです。
その結論が、南無妙法蓮華経です。
南無妙法蓮華経こそが法華経の本源的な教えということです。
そのカギは、実は法華経に説かれているのです。
本迹相対の個所では、法華経本門の如来寿量品第十六で釈尊が久遠(=久しく遠い昔)に仏に成った事を説明しました(久遠実成)。
しかし、釈尊が仏と成り得た根本の原因は、経文には明らかにされていないのです。
寿量品には”菩薩の道を実践した,,と説かれているだけです
すなわち、菩薩道によって仏に成った事は分かっても、それは結果の姿でしかありません。
釈尊自身が修行し、成仏した原因となる、根源の法が何であるかについては明かされていないわけです。
日蓮大聖人は、釈尊を成仏せしめた根源の法、更には、あらゆる仏を成仏せしめた根源の法こそが南無妙法蓮華経であると示されたのです。
そして、御自身の生命に現したその妙法を南無妙法蓮華経の御本尊として御図顕してくださったのです。
法華経の経文自体には明確に説かれていなかっただけで、経文の奥に本質が隠されていたということです。
「文上」「文底」という言葉があります。
文上とは、文の上、経文の上、表面という意味です。
確かに、経の文々句句には、あらゆる仏を成仏させた根源の法の正体については、説かれていません。
これに対して、文底とは、文の底、経文の奥底・根抵の事です
釈尊が久遠に成仏した根源の法は、南無妙法蓮華経であると元意を読み取る見方です。
すなわち南無妙法蓮華経は「法華経寿量品の『文の底』に沈められた」法華経の肝要なのです
文上、文底という言葉は、面白いですね。
確かに一般の事でも、文章にはっきり書かれて無くても、作者の真意を知る人が読めば、文章の奥底にある真実を的確に把握する事が出来ます。
この文上・文底の違いが、五重の相対の最後の種脱相対です。
末法の人々は、文上の法華経・本門ではなくて、寿量品文底の南無妙法蓮華経によって成仏できる事を明かしたのです。詳しくは、次に説明します。
【五重の相対】⑤種脱相対その1
【末法の成仏】
日蓮仏法は誰もが 仏となれる根本法


