法華経【第四章】信解品 完結
法華経と共に
さっそくですが前回の続きを始めましょう。
物語では【やがて、父は病気になりました。死が近い事を悟った。そこで父は息子に言った。
「私には多くの財宝があり、蔵に満ちている。その量と、人々にどれだけ与えるべきかを、お前は全て分かっている。お前は、私の意志をついで、この財産を管理して行きなさい。
何故なら、私とお前は全く違いが無いのだから。心して財産を失わない様に」と。息子は財産の管理を全て任される様になった。そして、その財産を大切に管理した。しかも、その財産の一分も自分の物とする事は無かった。】
教学では
「命じて家業を知らしめる」という段階です。「知らしめる」とは、管理させるという事です。
しかし、どんなに自由に管理しても「自分のもの」では有りません。
まだ仏の智慧という財産は、自分の物にはなっていません。
日蓮大聖人が「一生成仏抄」では、「若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」
通解=もし、心の外に道を求めて万行万善を修め様とするのは、例えば貧しさに窮している人が日夜に渡って隣の人の宝を数えたとしても、半銭の得分もない様なものである。とも仰せです。
物語では【しばらくして、父は息子の心根がようやく立派になり、かつて卑屈な心根を恥じ、大きな志に立った事を見てとった。
そこで、父は臨終にさいして、親族な国王・大臣らを集めて、告げた。
「諸君、この人物は実は我が子なのである。私の実の息子である。家出をして五十年間、放浪していたのだ。本当の名はこれこれだ。私の名はこうだ。一生懸命に探していたが、ここでたまたま出会う事が出来た。今、私は、自分の全ての財産をこの子に譲る」と。
息子はこの真実を知って、このうえ無い歓喜に包まれた。「この素晴らしい財産を、求めずして、おのずから手に入れる事が出来た」と。】
教学では、遂に息子の志が高く大きくなったからこそ、そこで名乗りがなされ、全財産が譲られた。
衆生の機根が高まったからこそ、真実の教えである法華経が説かれた。
そして、成仏という無上の宝聚が与えられたのです。
この一連の流れはこうです。
釈尊は、まず初めに自らの悟りの世界を、大々的に表しました。
この時に説かれた経文が華厳経でした。
しかし、二乗にはまったく分からなかった。
まるで飛行機を見た事も無い人に、飛行機の話をする様な物でした。
そこで、釈尊は人々の低い志に合わせて、低い目標を設定した小乗の教えである阿含経を説いたのです。
次に、志が高い人々の為に、大乗の諸経典を説いた。
けれども二乗達は、小乗の教えに執着して、大乗の教えに見向きもしなかった。
二乗達は、その頃の事を回想して、次の様に述べています。
「一日の給料をもらえただけで、たくさんもらえたと満足していて、更にもらおうとは思わなかった様な物である」と言っています。
釈尊は、小欲知足(わずかな欲望で満ち足りている事)は大切だが、正法に対しては貪欲であらねばならない、と。
欲を消し去るのでは無い。
何を欲するかが大事なのです。
「煩悩即菩提」です。
無上の悟り、菩提を求める欲は、即ち菩提となる。
自分は、この程度で良いのだというのは、謙虚に似て、実は、生命の可能性を低く見る大慢なのです。
二乗達は、小乗の小法に執着して大乗に向かいませんでした。
そこで、釈尊は、二乗を厳しく弾呵したのです。弾呵=小乗の教えにとどまっているのを叱ること。
信解品の中で、こうも書かれています。
四大声聞たち曰く「昔、釈尊は、菩薩の前で、声聞で小法に執着して求める者を非難された事があった。それは、実に大事をもって教えようとされたのでした」と振り返っています。
「大事」とは、唯一の真の大乗である法華経の事です。
これが仏の真の「財産」です。
さて、この様に信解品は、声聞達が「仏の教えを信じ、納得して、心から喜んだ」姿を描いています。
法華経の説く「信仰」は、人生という難問題に対して、安易な回答を得ようとするのではない。むしろ、そういう安易さを拒否し、「信」信じる事と「解」さとる事という、生命探究の二つの武器を握り締めて、限り無く問い続け、限り無く向上して行く。そのエネルギーを与えてくれるものなのです。
また、生命という親のもとに、放浪の息子が帰還する物語とも言える。
「信解」。それは、現代という「精神の漂流時代」を正しく方向づけ、生命の高みに向かって進歩させて行くキーワード、と言えるのではないでしょうか。
3部に続くお付き合い、ありがとうございました。
法華経【第四章】信解品 完結


