(法華経と共に)[8]弟子の理解が師匠の喜び❣️自らの生命をコントロール。法華経【第五章】1.薬草喩品

法華経

法華経【第五章】薬草喩品やくそうゆほんその1

法華経と共に

薬草喩品その1では、これから薬草喩品で行われる説法についての準備段階です。釈尊がどのように衆生を成仏させて行くか。薬草喩品は五つに分けて探究して行きますので、ゆっくり優しく学んで参りましょう。

とは言え。信・行・学の三つを同時に行う訳ですから。一つの話をご覧になるだけで貴方の生命力も福運も増して行きます。

三草二木さんそうにもく】の譬えじくとして、薬草喩品やくそうゆほんの重要なお話が始まります。

教学の目線から考えて、私達は、自らの生命をコントロールしなくてはなりません。

何故なら私達の中には、新しい現実を生みゆく、仏種ぶっしゅ(仏の種)があって、その種は、私達の生命が、真に私達のものにならないと生長しないからです。その種から生まれるのは、喜びです。それは愛であり、正義であり、自由であり、平和であり、豊かさです

法華経は、全ての人々に、仏性という無上の種を開かせる事を説いています。

そういう「分けへだてない仏の慈悲」をたとえによって描いたのが薬草喩品やくそうゆほんです。弟子の譬え話から師匠の譬え話と変わるのです。

ず、薬草喩品の成り立ちについて見ておきたいと思います。

さき信解品しんげほん(第四章)では、迦葉等かしょうらの四大声聞しょうもん。迦葉・須菩提しゅぼだい迦旃延かせんねん目犍連もくけんれんが、釈尊の説法、譬喩品ひゆほん.第三章の【三車火宅さんしゃかたく】の譬えを理解した事を、【長者窮子ちょうじゃぐうじの譬え】をもってしめしました。

薬草喩品やくそうゆほんでは、それを聞いた釈尊が、「素晴らしい。素晴らしい。迦葉よ。たくみに如来の真実の功徳を説いた」とたたえる所から始まります。

また四大声聞の理解が正しい事も承認しょうにんします。

そして、その上で釈尊は、四大声聞にこう告げたのです。

「如来の功徳は、あなた達が如何いかんに長い時間に渡り説いても、説き尽くす事は出来ない」、と。

そして【三草二木さんそうにもくの譬え】を説き始めます。

言うなれば、薬草喩品は、弟子の領解りょうげした内容を仏が承認しょうにんするとともに、更におぎなって述べるという形をとっています。領解とは仏の教えを聞いて悟る事。「これを述成じゅつじょとも言います」

そして、これを受けて、次の授記品じゅきほん【第六章】では、四大声聞の一人一人に、未来に必ず成仏するとの「授記」があたえられる訳です。

一人一人が、いつ(こう)、どこで(国)、何という名(名号みょうごう)の如来に成るかが具体的にしめされています。

この「師弟の交流」「師弟の一体」に成仏のカギが有ります。

何の為に「述成じゅつじょ」があるのかと言えば、法華経の説法を信解した声聞達が、「成仏にいたる菩薩道に間違い無く入った」事を、はっきりさせる為です。

この薬草喩品の末尾まつびには、釈尊が「汝等なんじらが行ずる所は 是れ菩薩の道なり 漸漸ぜんぜん(次第に。だんだんに。修学しゅうがくして ことごとく当に成仏すべし」と有ります。

これが、次の授記品じゅきほん第六章】であたえる「前提ぜんてい」になっているのです。

それでは、今回の薬草喩品の【三草二木の譬え】のあらましをべてみたいと思います。

三千大千世界さんぜんだいせんせかい(全宇宙)にある山や川、渓谷けいこく(山にはさまれた川のある場所を指します)や大地に、多くの樹木じゅもくや薬草が生えているとします。

それらは、様々な種類が有り、それぞれ名前や形もことなっています。譬えでは、このように多種多様の草木そうもくを、一応、上・中・下(大・中・小)の薬草と、大・小の樹木じゅもくに立て分けています。それで「三草二木さんそうにもく」と言います。

その様な所へ、厚い雲が空いっぱいに広がり、あまねく世界をおおい、雨となって降り注ぎます。そして、多くの樹木や薬草をあまねくうるおします。雨は平等に降り注ぎますが、草木そうもくは、それぞれの性質にしたがって生長し、ことなった花を咲かせ、異なった実が成ります。

同じ大地に生育せいいくし、同じ雨にうるおされても、多くの草木にはそれぞれ差別があると説かれいます。

厚い雲は「仏」を譬え、雲が起こって空をおおうのは「仏の出現」を譬えています。また、平等の雨とは「仏の説法」であり、「法雨ほうう」(仏の慈悲があまねく衆生に届く事)とも呼ばれます。

種々の草木そうもくは「衆生」で草木が雨を受けるのは「門法もんほう」(法を聞く事)です。そして、草木が生長し、花を咲かせ、実を成らせて行くのは「修行」や「功徳」を譬えていると言えます。

また、三草のうち「小の薬草」は人界・天界を譬え、「中の薬草」は声聞・縁覚を譬えています。「上の薬草」と、二木にあたる「小樹しょうじゅ」と「大樹たいじゅ」は、いずれも成仏を目指す菩薩を譬えている、と説かれています。

「上の薬草」「小樹」「大樹」はともに菩薩を譬えている訳ですが、それをどう立て分けるかについては、古くから様々な解釈がなされています。

例えば、「上の薬草」は蔵教ぞうきょうの菩薩(小乗教を学ぶ者)「小樹」は通教つうぎょうの菩薩(声聞、縁覚、菩薩の三乗に共通して学ぶ者)「大樹」は別教べっきょうの菩薩(三乗とは異なる究極真実の教えを学ぶ者)であると解釈しています。 

雲から雨が「等しく」降り注ぐという事は、如来の説法が「一相一味いっそういちみ」である事を意味しているとされます。「一相一味」とは、究極的には、いかなる衆生をも等しく成仏させるという功徳があるという事です。つまり「一仏乗いちぶつじょう」の事です。一仏乗=三乗(声聞・縁覚・菩薩)という異なる修行スタイルがあっても、すべては最後に一つの真実へ導かれると言う事です。

しかし、それは仏の側から見た本質であって、衆生の側からは、この功徳は分からない。

草木の性質や大小によって、受けとめる雨の量や効用こうようが違う様に、仏はただ一仏乗を説いているのに、衆生の受けとめ方が違うのです。衆生が受けとめる教えが、いわゆる「三乗」(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)です。

結局、「三草二木さんそうにもくの譬え」も、前の二つの譬え(三車火宅さんしゃかたく長者窮子ちょうじゃぐうじ)と同様、やはり「開三顕一かいさんけんいち、三乗を開いて一仏乗をあらわす」を表現しているわけです。一仏乗とは、三乗へだたりなく、成仏出来るという事、それは開三顕一です。三つの教えを開き申して、一つの教えをあきらかに顕。

つまり、一つには、仏がなぜ三乗などの教えを説いて来たかを明かしています。それは、仏の教えを受けとめる衆生の能力・資質に種々の違いがあった為に、それに合わせて種々の教えが説かれたという事を示している訳です。

もう一つには、仏の教えは様々であるが、本質は一仏乗であり、雨の様に一味平等であるという事を明かしています。

今回の薬草喩品その1では、これから薬草喩品で行われる説法についての準備段階です。薬草喩品は五つに分けて探究して行きますので、ゆっくり優しく学んで参りましょう。

ご視聴ありがとうございます。
続きは、次回のお楽しみに。

法華経【第五章】薬草喩品やくそうゆほんその1

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