化城喩品(けじょうゆほん)その4法華経【第七章】
師弟こそ究極の「人間の絆」
法華経と共に
根源的な願いを、私たちの実感できる言葉で言い換えれば、「自他ともの幸福を願う心」とでも言いましょうか。
言ってしまえば何んだと、思うかもしれません。
だれも知っている心ですから。
しかし、この心に生ききることは至難です。
煩悩、無明、欲望、エゴイズム、分断の心などが妨げるからです。
だから、この心を生ききるには、「師」が必要なのです。
そのことを、長遠の時間にわたる師弟の因縁を通して、化城喩品で教えているのではないでしょうか。
要は、ここでいう因縁とは「人間と人間の永遠の絆」のことです。
決して、人間を離れたものではない。
人間を外から縛るものでもない
反対に、弟子の自分が、自分の生命の根本にある「成仏の因」を自覚する。
すなわち久遠の「本願」を思い出す。
そして、その因を仏果へと育ててくれる師匠という「縁」のありがたさを自覚する。
この「最高の絆」への感謝と感動が、化城喩品の心なのです。
天台大師は、仏の「一大事因縁」について「衆生に此の機有って仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁となす」と言っています。
読み仮名
「衆生に此(こ)の機有(きあ)って仏を感ず故(ゆえ)に名(なづ)けて因と為(な)す、仏機を承(う)けて而(しか)も応ず故に名けて縁となす」
やはり弟子(衆生)を因、仏を縁に配しています。
因と縁では当然、因が中心です
縁はそれを助けるものです。
師弟の道も、弟子の自覚が中心です。
弟子がどれだけ強き求道心に立つか、どれだけ強き使命感に立つか、その一念の強さに師匠が応じるのです。
それを前提にして、仏はいかなる弟子も見捨てることなく、三世にわたって営々と化導している。
教育している。慈愛をそそいでいる。この大慈悲を、法華経は強調していると思います。
弟子は師匠を信じ、求める。師匠は弟子を守り、鍛える。誓いを忘れた弟子たちをも最終的には見捨てない。
この最高にうるわしい「人間の絆」こそ、仏法の師弟です。
仏法の師弟は、決して上から下へという一方通行の関係でもなければ、道理に合わない封建的なものでもない、ということです。
若干、飛躍するかもしれませんが、国際宗教社会学会のドブラーレ元会長は、「良き団体のもつ最も重要な要素」として、こう述べておられます。
「リーダーシップは、どのような組織にとっても重要ですが、良き団体の場合には代々の会長のあいだに象徴される師弟の関係性というかたちで浸透しているように思います。組織的な団結といいますと、我々ヨーロッパ人には理解しがたい面がありますが、しかし良き団体の団結は師弟という人間の絆によって築かれたものであって、その指導性のなかに団結の大きな力を感じました」と。
その意味で、仏法の師弟は「広宣流布へ」「仏国土へ」という「同じ目的」に向かって進む同志であり、先輩・後輩の関係の延長線上にある。両者が相対し、向かい合ったかたちだけでなく、根底では同じ方向を向いた関係にあるのです。
この峻厳な師弟の絆、それを自覚すれば、限りない力がわく。
無限の希望がわき、無限の慈愛がわき、無限の智慧がわくのです。
日蓮大聖人は、竜の口の法難のさい、殉死の覚悟でお供した四条金吾に、仰せになった。
御書
「もしあなたの罪が深くて地獄に入られたならば、どんなに釈迦仏が日蓮を仏にしようとなされても、従わないでしょう。あなたと同じく地獄に入ります。日蓮とあなたが、ともに地獄に入るならば、釈尊仏も法華経も、きっと地獄にこそおられるにちがいありません」
化城喩品では、こういう崇高な絆を教えることによって、弟子たちがやっと自分たちの「本願」を思い出した。
根本の「使命」を思い出した。そして、成仏という軌道に入るわけです。そこで「授記」をしたのです。
これまで方便品で「法」を聞いても、譬喩品で「譬喩」を聞いても、いわば他人ごとであった
それが「自分自身のことなんだ」「私のことを説かれているんだ」とパッと分かったのです。これが大事なのです。
化城喩品は迹門であり、法義の深さは違うが、自分自身が壮大なる「三世の師弟のドラマ」の主人公なのだと教えた点で、通じるところがあるのではないでしょうか。
化城喩品(けじょうゆほん)その4法華経【第七章】


