法華経【第五章】薬草喩品その3
法華経と共に
さっそくですが
前回の続きから始めましょう。
そもそも薬草喩品は、何故「薬草の喩」というタイトルなのか。こういう疑問が出てきますね。
「三草二木」の「三草」は、確かに「薬草」の事なのですが、経文で、「薬草」という言葉は、卉木、草木、叢林、大小の諸樹、あるいは大樹、小樹などと並べて説かれています。
別に樹木の喩えでも草木の喩えでも良さそうなのですが。
釈尊は、薬草喩品の中でこの様な話をしています。
【生まれつき目の見えない男を治療する為に、一人の医師がヒマラヤ山脈へ薬草を探しに行く物語です。】
物語では、ヒマラヤ山脈には、四種の薬草が有り、その薬草を取りに行く話です。
四種の薬草とは、
1.一切の色と味の要因を貯えている。
2.一切の病気を治療する。
3.一切の毒を消す。
4.それぞれの病状に応じて安楽を与える。
等と名づけられる、薬草を探しに行きます。
そして、手に入れる事が出来、男を治療します。
男は目が見える様になり、喜ぶのですが、世の中の全てが分かったかの様に錯覚してしまいます。
これを教学の目線から見れば。
目が見えていない状態の時は、六道の苦悩の闇に沈んでいる状態を譬えています。
そして、治療後は、六道の流転を脱した状態です。
この中には、声聞の悟りに満足している者もいる。
縁覚の境地に安住する者もいる、という譬え話です。
しかし物語は、無上の悟り、すなわち仏の境涯をこそ、目指すべきだと教えて行きます。
この「医師」は、「仏」を譬えています。
仏は「生命の医師」「人生の名医」なのです。
また「薬」という字は、草かんむりに「楽」と書く。
生命の病を癒し、安楽を与えるのが薬です。
大聖人は「薬とは是好良薬の南無妙法蓮華経なり」と仰せです。また「妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん」と述べられています。
全ての人を、根本から救いきる秘薬が、南無妙法蓮華経なのです。この一点に「薬草喩品」の肝心要が有ります。
仏は、衆生の違いを知りつつ、平等の一仏乗を説く訳ですが、薬草喩品では、こういう智慧をもった仏を「一切知者」と呼んでいます。また、その仏の最高の智慧である「一切種智」を強調しています。
「一切知者」であるがゆえに、仏はあらゆる法を説く事が出来、如何なる衆生をも導けるのです。しかも、他ならぬ自分と同じ「一切智地」(一切知者の位)、つまり仏の境涯に至らせるように衆生を育てるのです。
本当の悟りを得た人は、その悟りに閉じこもらずに、一切の人々の幸福と全世界の安穏を願う無量の慈しみの心を起こすのです。そうで無ければ、真の悟りではないのです。故に、修行者が低い悟りにとどまったり、誤った悟りにおちいらない様に、釈尊はこの様な言葉を指標として残したのでしょう。
仏の真の悟り、真の智慧は、無量の慈悲と一体なのです。この「智慧即慈悲」「慈悲即智慧」を、法華経では「一切種智」と呼んでいます。
薬草喩品の「我れは是れ一切知者・一切見者・知道者・開道者・説道者なり」との経文も、「智慧即慈悲」を示唆していると考えられます。
どんなに「自分は悟っている」と言ってみても、振る舞いが無慈悲で有れば、ウソなのです。智慧は見えない。その見えない智慧を推し量る目安は行動です。仏の出世の本懐は、どこまでも「振る舞い」なのです。
その心を釈尊は薬草喩品でこう説いています。
「いまだ救われていない者は救っていこう。いまだ理解していない者には理解させよう。いまだ安穏でない者は安穏にしていこう。いまだ涅槃を得ていない者には涅槃を得させていこう」「一切の枯しぼんだ衆生を潤して、みな苦を離れさせ、安穏の楽、世間の楽、そして涅槃の楽を得させていこう」と。
一仏乗の実体は、この智慧即慈悲の仏の大境涯そのものです。それを薬草喩品では、大雲と平等の雨で譬えているのです。
多様な草木を等しく潤す雨について、同品には「等雨法雨(等しく法雨をふらして)」と有ります。
これについて日蓮大聖人は、「ひとしく法の雨をふらす」と読む時は「釈迦如来の平等の慈悲」をさし、「ひとしく法の雨ふりたり」と読む時は「平等大慧の妙法蓮華経」をさしていると言われます。
ご視聴ありがとうございます。
続きは、次回のお楽しみに。
法華経【第五章】薬草喩品その3


