【立正安国】上
人間自身の生命の変革が「安国」の条件
以前、「日蓮大聖人の御生涯」の中で「立正安国論」について学びました。(ゆっくり教学9)
では「立正安国論」には、仏法と社会の関係は、どの様に説かれていたのか、研鑽していきましょう。
日蓮大聖人は現実の社会を安穏にして行く為に「立正安国」の法理を説かれています。
「立正安国」とは「正を立て国を安んずる」と読みます。
「立正」つまり「正法を確立する」ことによって、「安国」つまり「社会の繁栄」「民衆の安穏」「世界の平和」を実現するのが「立正安国」です。
大聖人が「立正安国論」を構想された動機は、不幸にあえぎ苦しむ民衆を、どうやって救済するかという点にありました。
具体的には、正嘉元年(1257年)の大地震をはじめ、毎年の様に、天変地異、飢饉、火災、疫病が続発していました。
「立正安国論」の冒頭には「近年から近日に至るまで天変地夭、飢饉や疫病が遍く天下に満ち、広く地上にはびこっている。牛馬はいたるところに死んでおり、死骸や骨は道路いっぱいに満ちている。すでに大半の人々が死を招き寄せ、これを悲しまない者は一人もない」と記されています。
大聖人は、不幸の解決へ、一人ひとりの中に、まず確固たる哲学を確立する必要があると考えられました。
「立正安国論」で、大聖人は「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ」と主張されています。
「実乗」とは真実の教えの意味で「法華経」を指しており、「一善」とは「根本の善」という意味です。
「根本の善」とは、法華経の万人成仏の法理であり、それを実現する南無妙法蓮華経です。
そして広く言えば、「生命の尊厳」「人間の尊敬」の哲学であると言えます。
個人にあっても、社会にあっても、「人権の尊重」「民衆根本」の理念が確立される事で、万人に幸福がもたらされて行くと説くのが仏法です。
つまり、社会を根底から支えている思想・哲学がどのようなものであるかによって、その社会の発展も衰退も決まってしまうということです。
民衆の幸福、国土の平和と繁栄のために、宗教は存在すべきです。
ところが、大聖人の時代の宗教は、そうではありませんでした。
当時の宗教は法華経を否定し、人間の可能性を閉ざしていくような教義が流行し、極楽寺良観らのように、権力と癒着し、権力から保護された宗教者が利権を貪っていたのです。
そこで、真の「立正」の確立以外に安穏な社会の実現はないと、大聖人は主張されたのです。
真の「立正」で、生命の濁りが清浄になり、生命観の歪みが正されていくのです。
大聖人は「貪り、瞋り、癡の三毒が盛んな国は、どうして安穏でいられようか。飢饉は貪欲から起こり、疫病は愚癡から起こり、合戦は瞋りから起こる」と仰せです。
仏法では、生命に巣くう「貪り」「瞋り」「癡」から、飢饉、戦争、疫病が起こると洞察しています。
優れた宗教で無ければ、かえってこの三毒が助長されてしまいます。
その結果、生命の濁りは、社会の歪み、自然環境の不調和として現れて来ます。
人々を害する「三毒」は結局、正法によってしかコントロール出来ないのです。
「安国」を実現する為に不可欠な実践が、生命を目覚めさせる「対話」です。
「人間」自身の生命の変革が「安国」の条件なのです。
その「安国」を実現するために不可欠な実践が、生命を目覚めさせる「対話」です。
日蓮大聖人は対話の精神をもって、問答形式で「安国論」を記され、当時の実質的な最高権力者・北条時頼に提出されました。
どこまでも「一人」の生命の変革こそが、安穏な社会の建設の根本だからであると拝する事が出来ます。
私たちは「平和社会実現の哲学」を語り、一人ひとりの生命の変革に取り組んでいます。
「対話」によって「立正安国」の実現を目指しているのがこの授業です。
仏法は「体」であり、根本です。根本の仏法が混乱し、見失われれば、世間もまた大混乱する。
社会を根底から支える思想が確立しなければ、世の中は規範を失う。
その結果、弱肉強食の畜生道となり、争いの絶えない修羅道となり、不満が渦巻く餓鬼道となる。
ついには苦悩が尽きない無間地獄の社会となってしまう。
だからこそ、「立正」がまず必要なのです。
そうすれば、必ず「安国」となっていく道理です。
【立正安国】上
人間自身の生命の変革が「安国」の条件


