中身をひらいてみよう。
序品【第一章】完結
法華経と共に
前回までの流れは、釈尊が大衆を導く為の手立てとして、無量義処三昧を行い、迷いの根源をひもといて行かれました。(無量義処三昧とは、仏の無量の教えの根源の法に皆が心を定めて三昧する)[皆で瞑想を行う]
今回は、「二処三会」の素晴らしさに触れて行きましょう。
二処三会とは
法華経が説かれた、二つの場所と三つの説法の場面の事。最初は霊鷲山会ではじまり、次に虚空会がはじまり、最後に霊鷲山会に戻る形を二処三会と言います。
霊鷲山会と虚空会の関係は、生命論のうえから、非常に深い意味を持っています。
前霊鷲山会から虚空会そして後霊鷲山会という流れは、いわば「現実から悟りの世界へ、また現実と」いう流れです。
虚空会では、巨大な宝塔が突如として大地から涌出して空中に浮かび上がり。その宝塔の中に釈迦・多宝の二仏が並んで座り、会座の大衆も空中に引き上げられて、説法が行われて行きます。
より正確に言えば、「悟り以前の現実⇒悟りの世界⇒悟り以後の現実」という流れになっています。
時空や煩悩・生死に束縛された現実の大地から、鎖をたたき切って、それらを見おろす虚空の高き境涯に到達しなければならない。
その高みから見れば、一切の苦しみ、悩み、喜怒哀楽も、全て浮島の如く小さな世界での一喜一憂に過ぎない事が、ありありと見えて来るのです。
これが虚空からの眼であり、仏法の眼であり、信心の眼なのです。
大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が住在空中なり虚空会に住するなり」と教えられています。
お題目を唱えて、祈っている信心の姿は、そのまま「虚空会」に連なっているのです。
「前霊鷲山会→虚空会」の流れには、こういう意義がありました。
では、「虚空会→後霊鷲山会」の流れというと。
例えば、お題目で得た仏界の生命力に基づいて、再び生活・社会の現実へ戻って行く、挑戦して行くという事にあたります。
生活即信心であり、信心即生活です。
法華経は、絶対に現実から離れない。
ひとたび虚空会に住してみれば、いとうべき現実も、今度は、仏界を証明する為の現実となる。苦しみ、悩みも、信心を証明し、信心を強める為のものとなる。
煩悩即菩提、変毒為薬です。
変毒為薬=娑婆世界における衆生の三毒(貪、瞋、痴と呼ばれる三つの精神的な障害または「心の毒」)や三業(身・口・意の三つで起こす「業」のこと)といった毒を、仏や本尊の功徳により転じて薬にすること。
汚れた九界の世界から仏界を開く、すなわち「九界即仏界」が「前霊鷲山会→虚空会」となるのです。
今度は「仏界即九界」で「虚空会→後霊鷲山会」、九界に勇んで救済者として入っていった時、汚れた九界の穢土が、仏界に照らされた寂光土になって行く。「穢土即寂光」です。
人生は、目の前の現実に囚われていてはいけない。
理想を目指し、現実を超えねばならない。
一方、現実から遊離してもならない。
地に足が着いていなければ、何も変わらない。
法華経の本義は、虚空という生命の高みから現実を見おろしつつ、その現実へ「変革者」として、関わって行く生き方を教えています。
法華経の特徴は、二処三会という全体の構成そのものに、見事に表現されているのです。
ここに法華経の不思議さがあり、秘密があります。
虚空会や二処三会は、この法華経の秘密を解く一つのカギだと言えます。
生命の全体像としての二処三会。
会座の大衆が虚空に引き上げられたのは、この真理の世界に入ったという事です。
言い換えれば、全ての衆生が永遠の仏陀であるという事です。
虚空会は、十界の衆生がことごとく平等であるという世界です。
衆生と仏との間に差別は無いという世界なのです。
大事な事は、私達は日々、この二処三会を行動しているという事です。
大聖人は虚空会の儀式を借りて、ご自身の内証の悟りを御本尊に示してくださった。
この御本尊を信受してこそ、法華経のダイナミズムを、そのまま生活に反映させているのです。
妙法を行ずる人生は、一瞬一瞬が虚空会という「真如実相の世界」に連なり、「永遠の世界」を呼吸しています。
(真如実相=永久不変、平等無差別なもの。すなわち仏性をいうのです。)
妙法の大宇宙から、光が、風が、音楽が、そして福徳の香気が流れ込み、私達をつつんでいます。
ゆえに、一瞬は一瞬ではない。一日は一日ではない。
そこに永遠性の価値を含んでいます。
時がたてばたつほど、黄金と輝く一瞬であり、一日なのです。
この無上道の人生を教えたのが法華経です。
中身をひらいてみよう。
序品【第一章】完結


