(法華経と共に)[28]迷っている人を導く、それが使命❣️師匠が弟子に出来る事とは。法華経【第八章.第九章】完

法華経

【法華経】五百弟子授記品(第八章)授学無学人記品(第九章)完

「宿命」をも「使命」に

​法華経と共に

「大願」に立てば、一切が生きてくる。何ひとつむだがない。

大聖人は「願くは我が弟子等・大願ををこせ」と叫ばれた。そして、こう仰せです。

「をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ」と。

また「露を大海によせ土を大地に加るがごとし生生に失せじ世世にくちざらむかし」との御金言もあります。

「つゆ」のように、はかない命。「ちり」のように、取るに足らない我が身。それが信心の「大願」によって、永遠となる。

法華経の大海とともに、妙法の大地とともに、永遠に消えることも朽ちることもない。

仏の大境涯に連なるのだ、とのお約束です。私たちは、そういうダイナミックな劇を演じているのです。

演じてると言えば、五百弟子品には「内に菩薩の行を秘し 外に是れ声聞なりと現ず 小欲にして生死を厭えども 実には自ら仏土を浄む」と説かれています。

外側には、生死を厭う声聞の姿を現しているけれども、本当は仏土を浄化する菩薩行を実践しているのだ、と。

続いて「衆に三毒有りと示し 又た邪見の相を現ず 我が弟子は是の如く 方便もて衆生をどす」とあります。

自ら貪・䐜・癡んの三毒に侵されている姿を示すのも、邪見にとらわれている姿を現すのも、すべて人々を救うための方便である、と。

私どもで言えば、久遠以来の「大願」を果たすために、今世に生まれてきた。そう確信すれば、今世の苦悩の姿も、迷いの姿も、全部、人を救うための方便だと分かるのです。

すなわち、初めから何の悩みもない恵まれた姿で人々の前に現れたのでは、だれも妙法の偉大さが分からない。また、そういう人には、民衆の心も分からないでしょう。

どんな宿命の苦しみも、それを克服して勝利の実証を示すために「あえて自分が選んだ苦しみ」なのです。

そう確信することです。勝つために自分があえてつくった苦悩なのだから、勝てないわけがない。負けるはずがないのです。

「大願」を自覚すれば、つまり「我、本来仏なり」と自覚すれば、自身の宿命すら使命に変わるのです。多くの人々と同じように「悩める民衆」の姿で生まれ、どこまでも「民衆とともに」幸福になっていく、それが私たちの使命のドラマなのです。

「大願」に立った庶民がつくった日本

「すべてを生かす」と言えば、日本には、じつに多様な人々がいます。これも偏った「小願」ではなく、全人類のための「大願」に立っているからこそですね。

才能や環境に恵まれ、学歴のあるリーダーもいます。また学歴や肩書はなくとも、人生の苦労を知り、民衆の心を知っているリーダーもいます。

それぞれに使命があり、役割があると思います。

しかし、忘れてならないことは、戦後の焼け野原の時代から、日本を死にもの狂いでつくってきたのは、絶対にインテリではないということです。

庶民のなかの庶民がつくったのです。

病人と貧乏人の集まりと蔑まれた民衆が、世界に広がる、今の平和・文化・教育の日本を築いたのです。

インテリには、強さもあるが、弱さもある。とくに日本のインテリは「民衆を守ろう」とするよりも「自分を守ろう」とする傾向が強いようです。そんな保身は「大願の人生」には必要ない。

捨て身です。「ちりを大地にうづむとをもへ」です。青年は「苦労」が大きければ大きいほど、その分、「民衆の心を知ることができるのだ」「使命が大きいのだ」と決めて頑張ることです。

ともあれ、二乗たちに「生命の根源に帰れ」「大願を思い出せ」と呼びかけたのが法華経です。

その具体的行動は、民衆のなかで、民衆とともに人生を生きることであった。

何よりも、「民衆に学べ」です。あのドストエフスキーは、インテリたちに、こう警告します。

「いかに真実を語るべきかを、民衆に学ぼうではないか。同時にまた民衆の謙虚と、実際性と、理知の現実性と、まじめさを学ぼうではないか」

「(社会を)なぜ活気づかせることができないかというと、諸君が民衆によろうとせず、民衆が諸君と精神的に一体となっていず、まるで無縁の存在にひとしいからである」と。

長い流刑生活を、民衆とともに生きぬいた彼ならではの信念です。

とくに彼は、自由主義思想によって一度は手放した「信仰」を、「民衆のおかげで」魂に取り戻したのだと言っている。

彼にとって民衆は、人間としての、根っこである信仰を教えてくれた、大地だったのです。

興味深いことに、ドストエフスキーは、死の当日、奥さんに流刑地から持ち帰ってきた聖書を開かせ、子らに対し「放蕩息子の話」を読み聞かせるように依頼したという。

「放蕩息子の話」とは、父から離れた息子が、遠くで生活するうちにおちぶれ、ふたたび父のもとに帰ってくるという物語です。

法華経の「長者窮子の譬え」(信解品〈第四章〉)に似ていることから、この物語が法華経の影響を受けている、見る学者もいます。

ドストエフスキーは、信仰によって、精神の「放浪」をやめたいと願った。同時に他の「放浪者」たちを連れ戻したかった。

信仰が息づく「民衆」の大地に帰らせたかった。「放浪者」は「長者窮子の譬え」の「窮子」に通じる。

「衣裏珠の譬え」の「貧人」にも通じるだろう。ある意味で、今、人類全体が「放蕩息子」であり、「貧人」なのではないでしょうか。

その、さ迷える人類に向かって、「ここに、帰るべき生命の大地がありますよ」「放浪をやめるカギは、あなたの胸中にあるのですよ」と呼びかけるのが、私どもの人生なのです。

その行動にのみ、生命の「貧人」でなくなる真の道である。

日蓮大聖人は、迫害の嵐の中で、「当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし」と宣言なされました。

このご確信、この誇りに、私どもも連なりたいものです。

【法華経】五百弟子授記品(第八章)授学無学人記品(第九章)完

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