【久遠実成】(上)
永遠に民衆を救い続ける仏
いよいよ、法華経本門で‘‘万人救済の実践,,が明かされるのです。
具体的には、まず、迹門の仏と、本門の仏の姿が違います。
まず人々は‘‘釈尊が、インドに王子として生まれ、若くして出家し、修行を積み重ねた末に、菩提樹の下で悟りを得た,,と理解してきました。
このように過去世からの長い修行の果てに、今世で成仏したという仏の立場を「始成正覚」(始めて正覚<=仏の正しい覚り>を成す)といいます。
しかし、如来寿量品第十六で、実はそうではないと、釈尊自らが明らかにします。
経文には次のようにあります。「我れは実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」この「無量無辺百千万億那由他劫」とは‘‘計り知れないほどの長い時間,,のことです。
釈尊が成仏したのが、気の遠くなるような、はるか昔だったということです。
成仏してからの時間は、具体的には「五百塵点劫」(ごひゃくじんてんこう)といわれています。
ほとんど「無限」といっていいような長い時間です。
こうした久遠(=久しく遠い昔)において既に成仏していたとする仏の立場が「久遠実成」です。
久遠実成こそが、釈尊の本来の境地(=真実の境涯)なのです。
そして、この久遠実成が説かれたことによって、法華経迹門ならびに法華経以外で説かれたさまざまな仏は、結局、久遠実成という‘‘真実の仏,,の、それぞれ一側面を説いたものでしかないことがはっきりしたのです。
単に‘‘久遠の昔に仏になった,,から偉大というのではなく、‘‘久遠の昔から仏として戦い続けてきた,,から偉大なのです。
さきほどの経文のあと、釈尊は続いて‘‘成仏して以来、この苦悩の世界や他の無量の国土で無数の人々を教化してきた,,さらに‘‘仏は(人々を救う)行動を、いまだかつて少しの間も休んだことはない,,と説きます。
人々を救い続けてきたのが、久遠実成の仏だというのです。
このことは、説法の聴衆にとっては、驚天動地のことでした。
それは、当時の人々は、仏というのは成仏して別世界に行ったまま、私たちが生きるこの現実世界には決して戻ってこないと考えていたからです。
しかし、それでは、現実の民衆が‘‘取り残されて,,しまいます。
法華経の久遠実成の仏は、永遠に民衆救済の活動を続けている仏です。
そして、その久遠の仏が示しているのは、仏自身が成仏の‘‘根源,,にまでさかのぼった果てに、実は、釈尊を真実の仏たらしめた‘‘根源の法,,はすべて人の生命に厳然と具わっているという‘‘真理,,です。
また、始成正覚の仏は、何度も生まれ変わって修行を重ね、九界の迷いの生命をすべて断ち切って、ようやく仏になるという考え方に基づいています。
これに対して久遠実成の仏は、仏になってからも、十界の生命を具え、その十界のすべてを総動員して民衆救済の戦いを続けるのです。
これまでは、どこか遠くに‘‘理想の悟りの世界,,というゴールがあると思っていましたが、本当の成仏の考え方は違うのです。
法華経寿量品で、釈尊自身の姿を通して、「真の仏の生命」が示されます。
そして、末法の人々が、この「真の仏の生命」を、自身の姿に涌現する方途を確立したのが末法の御本仏・日蓮大聖人なのです。
悟った後に、他の浄土に去ったり、涅槃の静寂に入り込んでしまう仏は、真実の仏ではありません。
成仏したが、九界の生命がなくなってしまうというのでは、真の悟りでも、真の成仏でもありません。
九界の生命が渦巻く現実社会に入って、人々を救う菩薩界の生命を表に活動するのが真実の仏なのです。
現実にさまざまな苦悩をかかえる一人ひとりに真正面から向き合うのです。
徹して一人を大切にする。
そして、たゆむことなく、一人また一人と幸福へと導いていく。
その不屈の菩薩道のなかにこそ、仏の生命が輝くのです。
皆の幸福のために、心を砕き身を尽くし、あらゆる手立てを講じるのです。
十界の全てを総動員するのです。
九界のどの境涯であっても、必要なときに必要な境涯を現せるのが、仏の真の自在の境涯です。
【五百塵点劫】
まず、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界をすりつぶして塵とします。
「五百千万億那由他阿僧祇」とは、五×百×千×万×億×那由他×阿僧祇という膨大な数。
「三千大千世界」とは、古代インドの世界観における‘‘一世界,,を、千×千×千すなわち十億個分集めた世界のことです。
これだけの数の塵を、東方の五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎるごとに一つずつ落とし、なくなるまで続けます。
さらに通過した国をすべて、すりつぶして塵とします。
その一つの塵について一劫(短くても約一六〇〇万年とされる)の時間をあて、その長遠な時間に、さらに百千万億那由他阿僧祇劫を加えた時間をさかのぼった過去が、五百塵点劫の久遠です。
【久遠実成】(上)
永遠に民衆を救い続ける仏


