【三類の強敵】
「人間を軽賤する増上慢」との戦い
前回、お話したように、第六天の魔王は、どんな人の心にも入り込んでいく、という事を学びました。
誰もが、無明(=迷いや煩悩)の生命を持っているからです。
御書には、大聖人御自身が「かねてからの用心が深かったので私に入ることはできなかった」とまで仰せです。
日頃からの用心が必要‼️
それで、天魔(=第六天の魔王)は、当時、人々が一番、尊敬していた高僧の身に入って、今度は日蓮大聖人を迫害するようになったとも述べておられます
しかも、この高僧に操られて、権力者や檀那(=僧の支持者)達、他の僧達が結託して妙法の実践者を弾圧してきます。
法華経の第十三章・観持品では、そうした強力な迫害者が末法に現れる事を、はっきりと予告しています。
このように説かれた迫害者の事を、中国の妙楽大師が「三類の強敵」と名付けました。
具体的には、「俗衆増上慢」「道門増上慢」「僭聖増上慢」の三つです。
「増上慢」とは、いまだ悟っていないのに悟りを得た等の種々の慢心を起こし、他の人よりも勝れていると思う人の事を言います。
「俗衆増上慢」の「俗衆」とは、仏法に無知な人々の事です。法華経の実践者の悪口を言い、そして、罵り、更には武器や棒で危害を加える事もあると説かれています。
二番目は「道門増上慢」ですが、「道門」の「道」は「仏道」にあたります。つまり、僧の事です。よこしまな悪智恵(=邪智)に支配され、心がねじ曲がり、仏法を究めていないのに自分の考えに執着し、自分が偉いと思っています。そして、妙法の実践者の邪魔をします。
最後は「僭聖増上慢」です。「僭聖」の「僭」とは、何ら実体がないのに、そうであると見せかけること。「聖」とは、悟った人のことです。つまり「僭聖」とは、外面は聖者の様に装って、人々から尊敬を集めますが、内面は悪心、貪欲に満ちていて、名誉や利益を追い求めている高僧です。
僭聖増上慢は、ふだんは世間から離れた所に住み、立派に修行に励んでいるように装っています。しかし、陰では、国王や大臣などに向かって、法華経の実践者を誤った考え(=邪見)の者であるなどと讒言し、権力者を動かして弾圧を加えてきます。(讒言=他人を陥れるためデマを捏造する事)
僭聖増上慢は凶悪です。しかも、簡単には、見破れそうに有りません。
ここが嫌なポイントですが、人々から聖者だと思われいることです。
大聖人の御在世では、俗衆や道門の人々をも従わせるほど、影響力を持った高僧が、大聖人を憎んで弾圧を画策して来ました。
大聖人を迫害して、竜の口の法難のきっかけを作った極楽寺良観のことです。
ある人は、僭聖増上慢について、今の時代では一部のマスコミ、評論家としても現れると喝破しています。
また、その正体は、常にその社会の聖なるものを利用する、聖者の仮面をかぶった存在であると教えています。
「エサ宗教」VS「本物の宗教」という図式ですね。
三類の強敵に共通するのは、人間を軽んじ賤しめる生命です。そして、正法の実践者を「悪」の方向へと追いやる「魔性」でも有ります。結局、三類の強敵とは、人間を蔑視して、人々を「手段」として操り、利用する魔性の働きなのです。
これに対して「人間への尊敬」という法華経の精神を弘め、どこまでも民衆に尽くされたのが大聖人の実践です。
末法の時代に「人間への尊敬」の哲学を広げる前進に、三類の強敵が起こるのは必然です。
人間を蔑視する「悪」と戦い続ける精神闘争によって、三類の強敵の正体を暴き、正義を満天下に証明してこそ、真の民衆のための社会が確立して行くのです。
「法華経の行者」と、三類の強敵なかんずく「僭聖増上慢」は鮮やかなコントラストを示している。
そのポイントは、「人間への尊敬」と「人間への軽蔑」です。
その違いが、そのまま「人間のための宗教」と「権威のための宗教」の違いになる。
また、「権力の魔性と戦う宗教」と「権力の魔性と結託する宗教」の違いになる。
そして、「迫害を受ける、本物の宗教者」と、「人を迫害する、偽物の宗教者」との違いになります。
【三類の強敵】
「人間を軽賤する増上慢」との戦い


