【難の本質】
「難」があるから、自分を変えられる。
仏法を実践していく過程には、さまざまな「難」があります。
なぜ、そうした難があるのでしょう。
また、どういう意味があるのでしょう。
ここでは「難を乗り越える信心」について学びます。
仏法を実践し、弘めていく過程には、必ず苦難があります。
そうした苦難を、仏法では「難」といいます。
具体的には、修行へのさまざまな妨げや非難・中傷、また迫害などのことです。
船の前進には必ず波の抵抗があります。
仏法も同じです。
それゆえに、日蓮大聖人は「法華経を持つ人は必ず『難』にあうと心得て持つのである」と仰せなのです。
そして、ここが重要な点ですが、いかなる大難があっても、この信仰を持ち続けるなかに成仏があるのです。
このことは、学校で何度も何度も試験を受けて、単位をとって、はじめて卒業できることを思い浮かべれば、分かりやすいのではないでしょうか。
その何回も経験する試験が、いわば「難」です。
必ず起きる難に決して負けないことが大事だということです。
難と格闘し、乗り越えて行く中で、何ものにも崩れる事の無い仏の境涯を開いていけるのです
瞬間瞬間が、仏の生命と、成仏を妨げる働きとの闘争です。
難の現れ方は、実にさまざまです。
自身の内面から起こってくる場合もあります。
また、自身の外からも、難は襲って来ます。
こうした、信心の支障となる働き、信心を破壊しようとする働きを「三障四魔」といったり、強力な迫害者を「三類の強敵」といいます。
これらについては後に、詳しく学んでいきますが、こうした苦難を乗り越えて仏法を実践し続けていくなかに、成仏があるのです。
信心ゆえの苦難に立ち止まるのではなく、むしろ信心を深める契機にしていくことが大切です
仏法を実践するゆえに起こる難は、必ず信心で解決していけます。
そういう試練を経るからこそ、磨きがかかり、自身の生命を根本から変革できるのです。
信心を強め、深めることで、仏界の働きが力強くなり、仏の境涯がますます開かれていくからです。
この難は、だれにでも起こることです。
結論から言えば、難は、だれの生命にもある「根本的な迷い」から起こるものです。
この「根本的な迷い」を「元品の無明」といいます。
「元品」とは「根本」、そして「無明」は、物事が明らかに見えないことです。
成仏を最後の最後に阻む根源的な迷いです。
これは、南無妙法蓮華経の御本尊しか克服できません。
「根本的な迷い」があるということは、「根本的な悟り」もあるのです。
私たちの生命に具わる「根本的な悟り」を「元品の法性」といいます。
私たちの生命には、だれにも「元品の無明」と「元品の法性」の両方があります。
最も奥深い所から生命を変えるのが日蓮大聖人の仏法です。
私たちが唱題し、仏道修行に励むことで元品の無明を封じ込め、元品の法性を顕していくことができるのです。
難に立ち向かい、信心で乗り越えることで、自身の生命を根源から変革するのが成仏の修行です。
生命を鍛え、磨き、自他ともの幸福を確立して行くのが、日蓮仏法の実践なのです。
幸福をつかむには、難を乗り越えなくてはならない。
正法には、必ず難があります。
悪と戦うがゆえに、難が競い起こるのです。
大変だなと思われるかもしれませんが、風がなければ、凧も揚がりません。
私たちは、悪と戦い、難を受けてこそ、磨き鍛えられ、人格の光彩を増していくんです
難に負けず、邪悪と戦い続ける人生こそ、最も崇高であり、そこにわきいずる無限の生命力が、使命の躍動が、幸福の大空へと自らを飛翔させる活力となるのです。
【難の本質】
「難」があるから、自分を変えられる。


