【受持即観心】
御本尊の「受持」が末法の成仏の修行
ここまで、御本尊に限りない功力が秘められていること、また、御本尊が仏界を現すための「生命を映す明鏡」であることへの理解を深めてきました。
それでは、日蓮大聖人が御本尊を顕される以前の時代には、どういう形で法華経の実践が行われていたのか、探求して行きましょう。
具体的な事例として、中国の天台大師の時代の修行を見てみましょう。
前にも少し述べましたが、それは、法華経の法理をもとに「瞑想」によって自身の心を見つめていくことが成仏するための修行でした。
この修行を「観心」といいます。
天台大師は、自己の内なる心を観ずることによって、その心に十界が具わり、そして三千の諸法すなわち、ありとあらゆる現象・働きが具わっていることを覚知するという修行を説きました。
そのために「観念観法」という瞑想などの修行が説かれたのですが、現実には優れた能力と大変な努力を必要とする、極めて困難な修行でした。
しかも、仏教を受け入れる能力が衰退いる末法の衆生にとって、こうした困難な修行は到底、堪えられません。
それに対して日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経の御本尊を受持して題目を唱えていくことが、すなわち観心であると説かれました。
心身両方にわたってよく受け持(たも)つこと、御本尊を唯一無二の信仰の対象として生涯、持ち抜くこと、こうした意味が「受持」にあります。
つまり、御本尊を受持することが、成仏のための修行となるということです。
日蓮大聖人は「観心本尊抄」に、「釈尊の因行果徳(いんぎょうかとく)の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此(こ)の五字を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲(ゆず)り与え給う」と述べられています。
通解
釈尊の因行果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足しているのである。われわれはこの妙法蓮華経の五字を受持すれば、自然に釈尊の因果の功徳を譲り与えられるのである。
釈尊が成仏するために積んだ修行(因行)と、それによって得た功徳(果徳)のすべてが「妙法蓮華経の五字」すなわち南無妙法蓮華経の御本尊に具わっています。
それゆえに、末法の衆生は、この御本尊を受持することによって、釈尊が修行で積んだ因の功徳と、仏として得た功徳のすべてを自身に譲り受けることができると教えられているのです。
このように、大聖人の仏法においては、南無妙法蓮華経の御本尊を受持することが、そのまま成仏の根本原因となる修行、すなわち観心となります。
このことを「受持即観心」と言います。
また、御本尊を「観心の本尊」と言います。
日蓮大聖人によって、だれもが成仏できるように、仏道修行の一大転換がなされたのです。
あらゆる仏を成仏させた、その根本原因が「妙法蓮華経の五字」の受持です。
日蓮大聖人によって、この「妙法蓮華経の五字」が南無妙法蓮華経の御本尊として具体的に現れされました。
この御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えていくことによってはじめて、だれもが仏界を現せるようになります。
つまり万人成仏の道が現実的に、しかも本格的に開かれました。
このように、日蓮大聖人によって、「御本尊への信に基(もと)づく受持」が、末法における「観心」、すなわち成仏の修行となることが示されました。
その意味では、「観心の本尊」は「信心の本尊」とも言えます。
御本尊への「信心」が修行の要諦となることで、この点においても、だれもが「信心」の心を起こして生涯、信心を貫いていけば、成仏の境涯を実現できる道が開かれたのです。
御本尊は、まさしく、万人救済を実現するための、日蓮大聖人の慈悲と誓願の‘‘結晶,,であることが深く分かります。
そこで、私たちにとっての「受持」とは、具体的には御本尊を信じ、唱題に励むことです。
さらに、この「唱題」について、大聖人は、ただ自分で行ずるだけでなく、人にも勧めて唱えさせていく‘‘自行化他にわたる唱題,,でなければならないと仰せです。
すなわち、真の受持とは「広宣流布を目指す信心」によるものでなければなりません。
大聖人が、御本尊について「法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり」と仰せのように、広宣流布のために、民衆救済のためにこそ、大聖人は御本尊を顕してくださったのです。
くわしくは次に、学びましょう。
大聖人は、この妙法を受持した人は「釈尊程の仏にやすやすと成り候」と仰せです。
大聖人の仏法によって、‘‘釈尊ほどの,,仏の境涯に至る道が万人に開かれたのです。
成仏といっても、遠い未来や架空の話ではない。
大聖人の仏法は、万人の「一生成仏」(一生の間に成仏すること)を可能にしたのです。
いわば、「受持即観心」は、成仏観の革命だったといえます。
戸田先生は「何千万年も修行してきた方便品の仏たちよりも、私たちは、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と、たった一言唱えるのみで、仏になる修行ができてしまうのであります」とも述べています。
一遍の唱題にも、無量の功徳がある。
諸仏が長い時間をかけて、何度も生まれ変わって修行して得た功徳を、私たちは瞬時にしてあますことなく得ることができる。
それほど偉大な妙法なのです。
遠い彼方にある「成仏」という頂上を目指して、ひたすら山道を登り続ける。
これが通途(つうず)の成仏観であるとすれば、日蓮大聖人の仏法は、万人を瞬時に頂上に登らせる教えです。
【受持即観心】
御本尊の「受持」が末法の成仏の修行


