【善知識】
ブログは民衆の幸福を広げる「善き友」の集い
日蓮大聖人の仏法で、自分をどこまでも向上させていくことができると教わってきました。
そのカギは何か。
常に向上していくためには、仏法を求め続けていく姿勢が大事なことはいうまでもありません。
けれども、私たちはいつも順調な時ばかりとは限りません。
落ち込んだ時や、信心が知らずしらず後退している時もあるかもしれません。
そうした場合、どうしたらよいでしょうか。
信心を励ましてくれる友の存在が大切です。
大聖人は仰せです。
「木を植える場合に、強い添え木をしておけば、大風が吹いても倒れないものです。たとえ元々から生えていた木であっても、根が弱い木は倒れてしまいます」
仏法を実践する私たちも同じです。
大聖人は、さらに続けて次のように仰せです。
御書
「特に強くない者でも、助ける人が強ければ倒れません。少し達者な者でも、一人で行動していたのでは、悪い道では倒れてしまいます」
助ける人の支えが大切だということです。
また、他の御書には「仏性(=仏になる可能性)が、あるといっても、善知識という善縁に出会わなければ、その仏性を悟ることも、知ることも、顕すこともできない」ともあります。
私たちの生命には、もともと仏性が内在しています。
しかし、善知識に会うことによってしか、その仏性は顕れてこないのです。
この善知識とは、人々を仏道へ正しく導く友のことです。
ここでの「知識」とは「人」を意味します。
仏法を求める心を起こさせ、そして深めてくれる友人が、いわば「善き友」すなわち「善知識」です。
御書
「仏を信じて、よりどころとした強い縁によって、ほとんどすべての人が仏になったのである」とも仰せです。
釈尊在世の人々も釈尊に巡り会った縁により、釈尊を善知識として成仏することができたということです。
要するに、善知識との出会いがなければ、成仏はないということです。
そればかりでは、ありません。
反対に私たちの信心を妨害するものがあります。
それが、悪知識です。
正法から人を退転させる働きをする者をいいます。
この悪知識こそ、もっとも警戒しなければならないものです。
悪知識は、私たちの信心を破壊するからです。
したがって、悪知識を遠ざけて善知識に近づいていくことが自身の仏道修行の成就のために重要となります。
御書
「仏になるみちは善知識にはすぎず」と仰せです。
私たちにとって、今、存在する善知識とは具体的には何を意味するのでしょうか。
私たちの信心を励まし、支えてくれる師匠や先輩、友のことです。
末法は悪知識が充満している時代です。
悪世の中で生涯、信心を貫くためには、「正しい信心の集い」「広宣流布の集い」が絶対に必要です。
大聖人の仏法に自分一人だけの信心ということは決してありません。
広宣流布の指導者のもとに互いに励まし合って前進していく善知識の集いが、正しい民衆にほかなりません。
御聖訓には、「すこし健の者も独なれば悪しきみちには・たうれぬ」
通解
すこし強くて頑強な者であっても、独りであれば悪い道では倒れてしまうのである。
牧口先生、戸田先生が、広宣流布の戦いを起こすにあたって、「学会の集い」をつくった大きな意義も、ここにあります。戸田先生は常々、「学会の集いは、私の命よりも大切だ」とまで言われていました。
かつて、アメリカの著名な学者の方が池田先生に質問されました。
「人生の努力を無駄なく全て生かして、使命を果たす貢献の人生にしていくためには、どうしたらいいのか」と聞かれたそうです。
池田先生はそのための具体的な要件の一つとして、こうお答えされたそうです。「『正しい信心の集い』『広宣流布の集い』から離れないことです。どんなことがあろうと、因果の法則の大法を持つ集いとともに、そして友と共に生き抜き、戦っていくことです。」
また池田先生は次の様にご指導なされております。
集いがどれほど大切か。どれほど、ありがたいか。何ごとであれ、集いや人との切磋琢磨を避け、自分だけでやっていこうとしても、往々にして、放縦となり、わがままとなってしまうものだ。
状況に流されて、自分自身の尊き使命を忘れ、放棄してしまったならば、自由なようで、もっとも不自由な人生になる。
集いには、励ましがある。鍛錬がある。修行がある。向上がある。そこで戦っていくことが、揺るぎない「幸福の土台」をつくっていく。とのご指導です。
【善知識】
ブログは民衆の幸福を広げる「善き友」の集い


