【願兼於業】
宿命を使命に変える
ここまで学んできた通り、私たちが、どうしようもない大きな苦難に直面しても、困難から逃げず、信心根本に挑戦する生き方を貫いた時に、必ずその宿命を転換することができる。
その体験が、人間をひと回りも、ふた回りも大きくします。そして、いつしか、より大きな苦難に立ち向かえるだけの「力」を、自身のなかから引き出せるようになるのです。
なぜ、そうしたことが可能になるのか。
根本は御本尊の偉大な功力です。そして、その力を引き出していくのが「正しい信心」です。
だから体験の花が咲くのです。
私たちは、一人だけで信心しているのでは決してありません。
行き詰まった時、周りの温かい励ましによって希望が生まれ、挑戦していく勇気がわいてきます。
信仰体験は、御本尊の功力や信心根本の生き方のすばらしさ、人間の持つ偉大な可能性の証明となります。
さらには、苦難に立ち向かっていく生き方自体が、多くの人々に希望と勇気を与え、仏法の力を証明していくことになります。
「妙法を弘める」大願に生きる時、「宿命」は、もはや自分を苦しめる「束縛」ではなく、妙法のすばらしさを示して人を救っていくという「使命」を果たすための「機会」となるのです。
日蓮大聖人は、生きて鎌倉に戻れるかどうか分からない佐渡流罪のなかにあって、ますます喜びを増しているとして、次のように仰せです。
「小乗経の菩薩が、『願兼於業』といって、つくりたくない罪ではあるけれども、父母などが地獄に堕ちて苦しんでいるのを見て、型を取るように同じ業をつくり、自ら願って地獄に堕ちて苦しみ、そして父母たちの苦しみに代われることを喜びとするようなものである。日蓮も、またこの通りである」
大難の真っ只中にあった大聖人御自身が、願って苦しみの世界に生まれたようなものである、ということです。
御自身の「使命」を果たすために、願って受けている大難が、この佐渡流罪であり、それは全民衆を救うために受けている苦しみだから、喜びであると、宣言されているのです。
「自ら願って苦難を受ける」仏法では、こうした考え方を「願兼於業」といいます。
「願いが業を兼ねる」という意味で、中国の妙楽大師(八世紀頃に)が名づけました。
これは、もともとは法華経にある考え方です。そこには「本来、偉大な福運を積んだ大菩薩が、苦しむ人々を救いたいとの『願い』によって、自らの清浄な業の報いを捨てて、悪世に出現して妙法を弘める姿」が描かれています。
「人々を救う」ために生きるのが菩薩です。ですから、苦しんでいる人がいれば、どこであろうと行って、宿業を力強く転換する自身の姿を示すことで、人々に妙法を弘めていくのです。
「宿命転換」のドラマを、人々のために演じるみたいに。
“何としても人々を幸福にしたい,,その心に貫かれているゆえに、妙法ゆえの難を、あえて呼び起こし、そして、それを乗り越えることで、末法に生きる人々に、成仏と宿命転換の道を示せるのです。
すばらしい菩薩ですね。尊敬します。
そして、末法に妙法を弘める立派な菩薩とは、私たちにほかならないのです。
そして、私たちが「友の幸福」のために生きる時、自身の「宿命」は、すでに「使命」に変わっています。
妙法を弘める広宣流布の実践のなかに、「宿命」を「使命」と変える希望の人生は開かれます。
その希望あふれる生き方を広げる、可能性を持っているのが、現代の人々なのです。
大聖人は佐渡流罪という大難のなかでの御振舞いを通して、宿命転換の人生の範を、弟子たちに、そして後世に示してくださった。「かく、生きよ」という偉大な魂の軌跡です。
大聖人は、御自身の一人の人間としての戦いを通して、悪世に生きる私たち凡夫の宿命転換の道を教えてくださったのです。
いかに進退きわまった、業に縛られたような境遇にいる人であっても、その本質を見れば、願兼於業の人生であることを示されているのです。
誰しも宿命はある。しかし、宿命を真っ正面から見据えて、その本質の意味に立ち返れば、いかなる宿命も自身の人生を深めるためのものである。
そして、宿命と戦う自分の姿が、万人の人生の鏡となっていく。
すなわち、宿命を使命に変えた場合、その宿命は、悪から善へと役割を大きく変えていくことになる。
「宿命を使命に変える」人は、誰人も「願兼於業」の人であるといえるでしょう。
だから、全てが、自分の使命であると受け止めて、前進し抜く人が、宿命転換のゴールへと向かっていくことができるのです。
【願兼於業】
宿命を使命に変える


