【信・行・学】
仏法実践の為の三つの柱
日蓮大聖人の仏法を学んで行くうえで、基本となる原理が「信・行・学」です。
「信」とは信心の事です。
「行」とは、信心の実践です
自身の生命を変革し、開拓して行く作業です。
お題目を唱えて、友人に大聖人の仏法を語り、弘めて行く事です。
「学」とは、大聖人の仏法を学んで行く事です。
具体的には、「御書」の研鑽です。
これによって、正しい「信心と実践」のための指針を見い出す事が出来ます。
大聖人は「諸法実相抄」で、「一閻浮提(=世界)第一の御本尊を信じていきなさい」と、御本尊への「信」をまず強調されています。
御本尊は生命の中にも存在すると言われます。それを大聖人が御図顕されました。
そのうえで、「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」と仰せです。
通解
行学の両面の修行を励んでいきなさい。行学が絶えたところに仏法はありません。自分も実践し、人にも教え、導いていきなさい。行学は信心から起こるのです。力があるならば、一文一句でも語っていきなさい。
この御書から、研鑽して。
「行学」が絶えたところには仏法は無いと言う事です。
仏教の基本は、「行・学」の修行によって成仏を目指す事です。
その「行・学」の実践は、「信」によって起こるのです。
つまり、大切な事は、信・行・学のいずれかが欠けても正しい仏道修行とならないという事です。
あくまで「信心」が一切の根本です。
そして、「行」と「学」が、どちらか一方に偏らず、互いに助け合い、補い合って、信心を深めていけるのです。
いわば、「行学」は車の両輪です。
「行」によって、仏法の素晴らしさを生命に感じ、また「学」によって仏法への理解を深めれば、より強い信心に立つ事が出来ます。そして、強い信心は、行・学をさらに前進させゆくエンジンとなるのです。
信心も大切、そして行・学、どちらも大切だという事です
「信心」こそ「仏の生命」を引き出す源です。
何があっても、「信心」さえ揺るが無ければ、必ず「人生の勝者」となっていけます。
何故なら、どんな困難も乗り越えられる力強い「仏の生命」を、誰もが秘めているからです。しかし、「信心」が無ければ、その生命を引き出す事は出来ないのです。
せっかく「仏の生命」を秘めていても、自分で自分の可能性を信じる事が出来なければ、何事も始まりません。
私達の「信」とは、日蓮大聖人の仏法を信ずる事です。そして、とりわけ、先程の御書にあった様に、御本尊を信ずる事です。
御本尊には、万人の生命に内在する尊極の妙法が顕されています。
大聖人は他の御書でも「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」「此の曼荼羅(=御本尊)能く能く信ぜさせ給うべし」と仰せです。
その信心のあり方は、「無二に信ずる」とあるように、この御本尊を唯一無二の信仰の対象として行く事が大事です。
唯一無二とは、ただ一つ、この御本尊だけを信じていく、という事です。
具体的に言えば、他宗教の本尊も拝むのでは唯一無二とは言えません。
「仏法の根本は信を以て源とす」です。法華経によれば、釈尊の弟子の中で「智慧が最も優れている」といわれた舎利弗も、ただ「信」によってだけ、法華経の法理を理解出来たといいます。
自身の境涯をはるかに超えた、海の様に広大な仏の境涯に入る為の、ただ一つの道。それが御本尊への「信」なのです
信心の「心」が強ければ、実は未来は自由自在であり。
功徳も無限に溢れ出す。
生々世々にわたって、生き生きと、光り輝く最高の人生を続けて行ける。
この「信心」の不可思議の力を確信するかどうかであり。
確信すれば、一時の嵐など、むしろ、爽やかな涼風にすぎない。
大宇宙と対話するような信仰の境涯から見れば、愚かな豆粒のごときの動きに過ぎないのです。
【信・行・学】
仏法実践の為の三つの柱


