法師品(第十章)その3【法華経】
「真実を語る」のが折伏
法華経と共に
さっそくですが、前回の続きから始めます。
弘教についてですが、最近、知り合いから「摂受と折伏は、どう違うのでしょうか」という質問を、聞かれました。
どうしても「強く言うのが折伏。物腰柔らかに言うのが摂受」というイメージがあるようなのですが。
なにか強引であることが折伏だと思い込んでいるとすれば、それは大変な勘違いであり、誤りなのです。
折伏とは「真実を語る」ことです。法華経は真実を説いているので「折伏経典」と呼ばれています。
末法においては、法華経の真髄である「南無妙法蓮華経」のすばらしさを語り、広げていく行動は、全部、「折伏」です。
たとえば、掃除をするのに、力強く掃除するのも、静かに掃除するのも、要は、きれいになればいいわけです。
「折伏」という文字のイメージが、少しこわい感じだからでしょうか。折伏は喧嘩をしにいくのではない。どこまでも慈愛です。
ある先生方は、言われています。「折伏を、すなおに、どんどんしなさい。それから、人を憎んではならない。けんかや口論はいけない。まじめに、やさしく教えればよい。その教える精神ができればよいのです。それで反対すれば反対した本人がだめになる。やさしく教えるという気持ちです。恋愛みたいなものです」と。
おもしろいこと、おっしゃいますね、先生方は。恋愛なら、みんな一生懸命になる。何枚も何枚も便箋をむだにして、手紙を書いたり。今度の休みの日、どんな言葉で誘おうかなと、夜が明けるまで考えたり。それがうまくいって、結婚して後悔するようなことは、「折伏」にはならないでしょうね。
釈尊は「すべての人が仏になれるのだ」という「真実」を分からせようとして、まず「諸法実相」という法理を説きました。それを聞いて、舎利弗は分かった。他の人は、分からなかった。そこで釈尊は、譬喩を説いた。今度は四人の声聞のリーダーが理解した。まだ、分からない人たちがいる。自分と衆生との深い縁を説いた。それによって、すべての声聞が納得できた。
このように釈尊は、衆生が「納得できるように」心をくだきました。
まったく!分からないやつだな!と見放したりしなかった。粘り強いというか、「何としても、成仏させたい」という思いが深いんです。
その精神は、現代の折伏と同じです。大切なことは「真心が通じますように」との祈りです。祈りから智慧も生まれる。確信も、歓喜も生まれる。大変だけれども、その人が必ず幸せになり、自分も幸せになっていくことを思えば、これほど「楽しい」こともない。
先生方は、よくおっしゃってます。「折伏というものは苦しんでやるものではない、楽しくやらなければなりません」と。
もちろん現実には、すぐに信解できる人もいれば、そうでない人もいます。しかし、あせる必要はまったくない。いずれの場合も、真剣に祈り、語ったことへの功徳は絶大です。簡単にいかないから、智慧も湧き、成長できる。
種を植えておけば、必ず将来、花開く時がきます。根本は「私にも、仏様の使いをさせていただけるんだ」と喜び勇んで、語っていくことではないでしょうか。
折伏している人を、心からたたえていくことも大事です。その人は「如来の使い」であり、仏のごとく敬わなければいけない。
それが法師品の心です。この心があるところに、福運はつくし、勢いがつく。結果として、多くの人を救っていけるのです。
広宣流布に生きている人を、仏のごとく大切にする。その心が分かれば、法師品は、否、法華経は分かったことになるのです。
法師品(第十章)その3【法華経】


