【善と悪】
極悪と戦えば極善となる
人間を苦しめる悪と戦い続けることが真の善であることを学んできました。
それをふまえて、これまでは、善と悪について漠然と考えていたような気がします。
正邪や善悪を曖昧(あいまい)にする日本の風土を変えていかなければならないと思います。
M先生は、「悪いことをするのと、善いことをしないのは同じか違うか」と人に質問されたことがあります。
普通なら、「悪いことをする」よりは、「善いことをしない」ほうが、まだましと考えてしまいそうですが。
M先生は「善いことをしない」のは「悪いことをする」のと同じであると語っています。
例えば、だれかが電車のレールの上に、石を置いたとします。これは悪です。
一方で、それを見ながら注意もせず、放置してしまえば、「善いことをしなかった」ために、結果として「悪いことをした」のと同じになってしまいます。
「善を破る者を見て放置した仏弟子がいれば、その人は仏弟子とは言えない。仏法の敵である。悪の正体を暴き、責め、追放してこそ真の仏弟子である」との釈尊の言葉を大聖人は示されています。
悪と戦ってこそ、真の仏弟子となるのです。
まず大前提ですが、私たちの「戦う」というのは、どこまでも言論による精神闘争です。
仏法でいう「悪と戦う」とは、言論、対話によって生命を触発し、善の生命を開発することです。
当然、暴力や宗教戦争は、絶対反対です。この「悪と戦う」ことは、仏典でも強調されています。
例えば、釈尊は提婆達多に対して、’’人の唾(つばき)を食う者,,と面罵(めんば)しています。国王に取り入ってその庇護(ひご)<=かばって守ること>を受けていた態度を責めたものです。
激しい言葉ですね。
仏は、真心の民衆には優しく語りかけます。しかし、魔性の本質を暴く言葉は強くならざるをえないのです。
提婆達多は、釈尊の命を狙い、教団の分裂を画策しました。人々が提婆の邪義に惑わされて不幸になることを防ぐためには、悪の本性を暴くために、強く糾弾(きゅうだん)しなければならなかったのです。
悪と戦う目的の第一は、悪人にだまされている人々を救うためです。そして、さらにいえば悪人の生命そのものを善に目覚めさせるためです。
ですから、良心を忘れて無反省でいる相手を心の底から目覚めて悔いるようにするまでは、強い言葉によって糾弾し続けることが必要です。
しかも法華経では、最終的には、この提婆達多の成仏を説いています。それを悪人成仏といいます。
すごい仏法ですね。
仏法は、あらゆる生命には、善と悪の両方がそなわっている、と説いています。
御書には「私たちの生命が、悪縁あえば迷いとなり、善縁にあえば悟りとなる」と説かれています。迷いといっても、悟りといっても、いずれも私たちの生命のあらわれ方の一つです。
実は、法華経以外の教えでは、生命の悪を完全に断じ尽くさないと悟りにならない、仏に成れないと説きます。
しかし、それでは、観念的な仏を説くようなものです。私たちのような凡夫は永遠に仏になれません。
しかし、悪が無条件でいいというわけにはいきません。
自身の外にある「悪」は、自身の生命に潜む悪の現れです。そして、「外なる悪」の一つが「難」です。仏道修行を妨げ、幸福への道を閉ざす働きだからです。
結局、「外なる悪」と戦うことで、自身の「内なる悪」が冥伏(みょうぶく)していくのです。
冥伏とは、目に見えず心にも顕れないことです。なくなるわけではありません。
縁に触れれば、また出てきます。けれども冥伏すれば、表面には出ないのですから、それによって苦しむことはありません。
私たちは、悪と戦うことで自身の生命が鍛えられ、強くなり、成仏できるのです。極悪と戦えば極善となります。
悪と戦う中に、自身の人間革命も宿命転換もあるのです。
悪は暴かねばならない。断固たる怒りをもって、徹底して追い詰め、打ち砕かねばならない。
悪を容認すれば、さらに多くの人びとが苦悩の辛酸をなめなければならないからです。
中途半端な戦いでは、邪悪をますます増長させていくだけです。
「瞋恚(しんに)<=いかり>は善悪に通ずる者なり」とは御聖訓の一節です。
大悪と戦う正義の怒りは、大善を生むことになる。極悪と戦えば、極善になるのです。
そして、善人の勝利、善の繁栄こそが、邪悪への最大の復讐となるのです。
【善と悪】
極悪と戦えば極善となる


