化城喩品(けじょうゆほん)その2法華経【第七章】
【三千塵点劫】長遠の師弟関係の始まり
法華経と共に
化城喩品のキーワードは「因縁」です。
「因縁」というと、今では、「因縁をつける」とか、「因縁話」とか、あまり良いイメージで使われていないようです。
もちろん、それらは仏教本来の「因縁」(原因、条件の意)から派生し、世俗的な意味を帯びたものです。
化城喩品の「因縁」は、釈尊と声聞の弟子たちとの過去世からの深い「結びつき」であり、師弟の「絆」を明かしたものです
だから、サンスクリットの法華経では、この品の題名は「過去世からの結びつき」(プールヴァ・ヨーガ)とあります。
また、竺法護訳の「正法華経」では、三千塵点劫(さんぜんじんてんこう)という大昔について説いていることから、「往古品」(大昔の章)と訳されています。
羅什三蔵が「化城喩品」と訳したのは、この品の後半で有名な「化城宝処の譬え」が説かれるからです。
釈尊は今世だけでなく、はてしない過去から、うまずたゆまず、一貫して弟子の声聞たちを導いてきた。
そういう過去からの「因縁」を教えたのです。
「今世だけのことではないのだよ。いつも私は君たちと一緒だった。君たちはいつも私と一緒だったのだ」。
この熱いメッセージが、声聞たちを目覚めさせたのです。
そして彼らは、小乗の悟りをもたらす二乗の法は方便であり「化城」だったのだ、成仏という「宝処」こそ本当の目的地だったのだ、お師匠さん(釈尊)は、その宝処にわれわれを連れていってくれるために、これほどまでに忍耐強く、これほどまでに慈愛深く、これほどまでに巧みに導いてくださったのだ、と感動するのです。
これが「化城宝処の譬え」の意義です。
それで、化城喩品という題名となるわけです。
師弟の関係の長さを説いた「三千塵点劫」とは、気の遠くなるような長遠の時間です。
次のように説かれています。
まず三千大千世界にある大地をすべてすり潰して塵(ちり)にし、東方に向かって千の世界を過ぎたところで一つの塵を落とします。
さらに千の世界を過ぎたところでまた一つの塵を落とし、同様にしてすべての塵を落とし終わるところまで行きます。
そして塵を落としたところと落とさないところを問わず、それまで経過した範囲のすべての世界をまたすり潰して塵とし、その塵の一つを一劫と数えるというのです。
数えるといっても、数えきれるものではありません。
そもそも、最初にすり潰す三千大千世界は、古代インドの世界観で言えば全宇宙ですし、今日の天文学の知識にあてはめれば、太陽系を十億も集めたほどの広大な世界となります。
また、一劫という時間も計り知れない。
過去世の因縁を明かすにしても、どうしてこのような久遠の過去まで、さかのぼらなければならないのでしょうか。
それについて天台大師は「化導の始終」、つまり弟子たちに対する釈尊の化導の始めから終わりまでを明かすのが化城喩品である。と言っています。
始まりは三千塵点劫の昔、終わりは今の法華経の説法です。
その「始まり」にカギがあるのです。
「始まり」に何があったのかが分かれば、今、法華経で成仏の教えである一仏乗を説く意味も分かる。
結論的に言えば「下種」が重要なのです。
日蓮大聖人は「三千塵点劫の昔に仏果の種子を下種し、法華経に至って種子を顕し開顕を遂げる」と仰せです。
種を植え(下種)、育て(熟)、実りを得る(脱)。
成仏という果実を今、「授記」によって約束するにあたり、その原点である「下種」の時のことを教えているわけです。
では下種の時とは、どういう時か。
釈尊の化導の始まりに何があったのか。まず、化城喩品の説くところを追ってみたらどうだろうか。
化城喩品では、初めに、仏の出現が説かれます。
仏の名は「大通智勝仏」(だいつうちしょうぶつ)です。また、この仏の国土は「好城」と言い、その時代(劫)は「大相」と名づけられています。
これらの名に、この時代がどういう時代であったかがうかがえます。
「大通智勝仏」という名は、大いなる神通と智慧によって最も勝れた仏という意味で、この仏が智慧の完成者であることが示唆されています。
また時代の名である「大相」は偉大なる姿という意味であり、国土の名である「好城」は好き生成、好き生誕、好き起源等の意味になります。
大通智勝仏という、大いなる精神的指導者が世に出現し、これから新しい偉大な時代が形成されていく、そういう始まりの時を表しているのでしょう。
新しい時代が始まる時には、いつも精神の変革者が現れる。
自身が精神の新しい次元を開き、旧思考にとらわれた人々の心を解放する。
あるいは、目に見えないかたちで深い精神的影響をあたえていくのです。
私どもも、先覚者の誇りをもって前進したい。
大聖人は「南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は大通智勝仏なり」と仰せです。
唱えものすべてが仏。
その大通智勝仏の成仏について、化城喩品では、かなりくわしく説かれています。
ここで、分かりにくいのは、大通智勝仏が道場に坐して魔軍を破った後にも、十劫もの間、成仏しなかったと説かれていることです。
「其の仏は本と道場に坐して、魔軍を破し已って、阿耨多羅三藐三菩提(=無上の悟り)を得たまうに垂んとするに、而も諸仏の法は現に前に在らず。是の如く一小劫、乃至十小劫、結跏趺坐して、身心動じたまわず。而も諸仏の法は猶お前に在らざりき」とあります。
読み仮名
「其(そ)の仏は本(も)と道場に坐して、魔軍を破(は)し已(おわ)って、阿耨多羅三藐三菩提(=無上の悟り)を得たまうに垂(なんな)んとするに、而(しか)も諸仏の法は現に前に在(あ)らず。是(かく)の如(ごと)く一小劫、乃至十小劫、結跏趺坐(けつかふざ)して、身心動じたまわず。而も諸仏の法は猶(な)お前に在らざりき」
魔軍を破るとは、根本的には煩悩に打ち勝つことを意味していると思われる。
しかし、煩悩に勝つことだけが悟りではない。
それは悟りの一面です。
衆生を救う慈悲と智慧が現れてこそ、本当の悟りなのです。
化城喩品は声聞たちへの説法です。声聞たちは、煩悩を断じて静寂な境地に入ることが悟りだと思っている。
仏の真の悟りは、それとは違うことを示すために、あえて大通智勝仏の成仏をこのように描いているのかもしれない。
もちろん、慈悲・智慧と言い、煩悩と言っても、「空」であり、実体論的にとらえてはならないことは言うまでもない。
そのうえで、分かりやすく言うならば、仏の悟りは、煩悩を「断ずる」のではなく、慈悲と智慧が、煩悩や業を「包み返す」のです。
「煩悩・業・苦の流転」を押し返して、「慈悲と智慧の清流」になる。
生命の「悪の波」を「善のうねり」へと変える。
煩悩に煩わされないという意味では、静寂で澄みきった境地だけれども、同時に真の躍動があるのです。
それは大海のごとき境地です。
いかなるときも、深みでは絶対の静寂と安定がある。
そしてつねに「善のうねり」が生命に踊っている。
妙法の働きが「如如として来る」ので、如来です。
これが、妙法と完全に一体化した仏の悟りの姿です。
おもしろいのは、その十劫の間、諸天が大通智勝仏を供養し続けます。
忉利天は壮大な獅子座(仏が座る所)を供養し、梵天王たちはつねに天華を降らせ、四天王たちは天鼓を鳴らし続けます。
言わば、無上の悟りを得ようとしている仏への応援団です。
衆生の代表である諸天が応援団になったというのは、仏の出現を持つ衆生の心を表現していると言えよう。
大通智勝仏が無上の悟りを得た時に、世界中が日月にも勝る光で満たされます。
仏の生命に妙法が浸透しきり、衆生を救う広大な慈悲と無量の智慧の香りが、全宇宙に向かって放たれたのです。光は、そのシンボルでしょう。
化城喩品(けじょうゆほん)その2法華経【第七章】


