華が舞う様に踊るが如く
方便品法華経【第二章】
法華経と共に
釈尊は序品(第一章)で
無量義処三昧という瞑想に入って居ました。
次の方便品では、釈尊がこの三昧から立ち上がり、突然、舎利弗に対して「諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり」と仏の智慧の素晴らしさを語り始めます。
舎利弗が「ぜひ、続けて仏の真実の法を説いてください」と嘆願されます。
釈尊は、諸仏がこの世に出現した目的「一大事因縁」とは、衆生をして仏知見(仏の智慧、仏界)を開かしめ、衆生に仏知見を示し、仏知見を悟らせ、仏知見の道に入らせる事であった、と教えます。
衆生の仏知見(仏界)を開かせるという事は、衆生に仏知見が具わっているという事です。
仏知見があるのは、衆生が本来、仏だからです、と。
つまりこれは「衆生こそ尊極の存在なり」という一大宣言なのです。
私達が、ただの凡夫でいるという事は秘妙方便といい、真実は仏なのです。我々の生命にも御本尊はかかっているのです。すなち御仏壇に有る御本尊即私達と信ずるところに、この信心の奥底が有るのです。
凡夫がそのまま仏である。
これは不思議です。
思議しがたい。
だから「妙」なのです。
法華経を信じ無い人には、とても分からない。
「秘」です。
森羅万象
人生で言えば、生も死も、喜びも悩みも、罰も功徳も、生じる一切の現象、ありとあらゆる姿は、信仰者にとって、全て妙法の現れであるし、妙法を証明する方便なのです。
例えば、一人の未信心の人がいます。
何らかの悩みがある。
悩んでいる姿は地獄界でしょう。
その悩みがきっかけで信心を始めた。
そうなれば、地獄界即仏界であり、その悩みは仏界に至る為の法用・能通方便だったと言えます。
しかし、信心してからも悩みは有る。行き詰まりもある。ただ今度は、何が起こっても、全部、信心を証明する為の悩みである。秘妙方便である。
信心の為の悩みであれば、菩薩界所具の地獄界、仏界所具の地獄界です。(悩み事もお題目を唱えて、菩薩界・仏界に入って解決していく)
こんな尊い悩みは無い。
悩みの山に挑戦すればするほど、乗り越えれば乗り越えるほど、仏界は強まって行く。その意味で、信心が強ければ、マイナスは即プラスであり、罰も即利益なのです。人生のうえに起こる一切が功徳なのです。
今、どんな姿をしていても、一切が「成仏イコール人間革命」という今世のドラマにとって、必要不可欠の一場面、一場面である。
真実(仏界)を表している方便が(九界)なのです。これが秘妙方便です。
大聖人は「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」と仰せです。
苦楽は九界であり方便。妙法を唱えるのは仏界であり、仏の真実の智慧の世界です。
苦も楽も、信心という大きな高い境涯から悠々と見おろして行く。そして妙法の喜びを楽しく味わって行く。
それが「妙法蓮華経方便品」(法華経方便品)を身読した事になるのです。
方便品に「如我等無異=我が如く等しくして異なること無からしめん」と有ります。
一切衆生を、自分と同じ境涯にまで高めたいという仏の誓願です。それが「師弟」の心です。もちろん、自分もさらに成長していく立場ですから、自分と同じようにというより、この人を自分以上の人材に育てようという決意が「如我等無異」に通じるでしょう。
経文には、「踊躍歓喜、即起合掌」舎利弗は歓喜のあまり思わず踊りあがって、釈尊に向かって合掌したと説かれています。(華びらが空を舞う様に)
そして舎利弗は、一仏乗を納得してこう告白しています。
(一仏乗=成仏の為の唯一の教えの意で、全ての者が成仏できるという法華経の教えの事)
舎利弗は、「今、仏から未曾有(未だかつて無い)法を聞いて、全ての疑いや悔いが無くなり、心身ともに安穏になりました。今日はじめて知りました。自分は真の仏子です。仏の口から生まれ、仏の教化から生まれたのです」と。
この「仏子」という言葉は、大乗では菩薩を意味します。舎利弗は一仏乗を信解して、声聞から菩薩に生まれ変わったのです。(声聞=仏の教えを聞く者)
釈尊は、「諸仏の本誓願は 我が行ずる所の仏道を普く衆生をして亦た同じく此の道を得しめんと欲す」と仰せです。
同じこの道を歩ませたい、不二の道を会得させたい。これが仏の「本誓願」なのです。
華が舞う様に踊るが如く
方便品(ほうべんぽん)法華経【第二章】


