【仏の未来記】
仏法は末法悪世の人々を救う大良薬
万人の幸福のために、根本の悪を断ち切り、根本の善を開いていく妙法を弘め続けて来た仏。
仏法を弘めることの素晴らしさに感動致します。
末法の広宣流布は、人々の迷いがより深くなっていく時代に善を弘めるわけですから、簡単に進むものではありません。
それどころか、迷いと不信を払えない人々から善の勢力への反発も強くなります。
「日蓮大聖人の御生涯」で以前にご紹介致しましたが。
日蓮大聖人にも立宗宣言の直後から、難が押し寄せてきました
主な大難を再確認の意味で挙げてみましょう。
文応元年1260年8月27日、「立正安国論」提出をきっかけとして、念仏者たちが大聖人を亡き者にしょうと、松葉ヶ谷の草庵を襲撃(松葉ヶ谷の法難)
弘長元年1261年5月12日、幕府は大聖人を捕らえて伊豆の伊東に流罪(伊豆流罪)
文永元年1264年11月11日、安房国東条郷で地頭・東条景信の軍勢に襲撃され、額に傷を負い、左の手を折られる(小松原の法難)
文永8年1271年9月12日、鎌倉幕府の権力者・平左衛門尉が武装した兵士を率いて、松葉ヶ谷の草庵で大聖人を謀反人のような扱いで捕縛。深夜に竜の口の刑場で斬首刑の執行を謀る(竜の口の法難)
同年10月10日、処刑に失敗した幕府が、大聖人を死罪に等しい佐渡への流罪に処す(佐渡流罪)
難また難の連続です。
末法にあって、正法の広宣流布に生きる人には、それだけの激しい難がおし寄せてきます。
実は、そのことは法華経に明確に説かれているのです。
末法は仏教を説く側が混乱し、釈尊の仏法が人々を救済する力を失って、何が正法なのかが分からなくなる時代です。
法華経では、そうした時代にあって正法を弘めることがどれだけ困難かを、あらかじめ「予告」しているのです。
その意味で、法華経は、末法の時代にこそあらゆる障魔を越えて全世界に広宣流布していくべきことを記した「仏の未来記」なのです。
三類の強敵も法華経に、説かれています。少しおさらいしておきましょう。
三類とは、法華経を実践し、弘める人を、強力に迫害してくる三種類の敵人でした(俗衆増上慢、道門増上慢、僭聖増上慢)増上慢とは、いまだ悟っていないのに悟りを得た等の種々の慢心を起こし、他の人よりも勝れていると思う人の事を言います。
「俗衆増上慢」の「俗衆」とは、仏法に無知な人々の事です。法華経の実践者の悪口を言い、そして、罵り、更には武器や棒で危害を加える事もあると説かれています。
「道門増上慢」ですが、「道門」の「道」は「仏道」にあたります。つまり、僧の事です。よこしまな悪智恵(=邪智)に支配され、心がねじ曲がり、仏法を究めていないのに自分の考えに執着し、自分が偉いと思っています。そして、妙法の実践者の邪魔をします。
「僭聖増上慢」ですが。「僭聖」の「僭」とは、何ら実体がないのに、そうであると見せかけること。「聖」とは、悟った人のことです。つまり「僭聖」とは、外面は聖者の様に装って、人々から尊敬を集めますが、内面は悪心、貪欲に満ちていて、名誉や利益を追い求めている高僧です。
そのほか、さまざまな迫害に直面すると法華経は繰り返し教えています。
法華経は、その困難極まる時代にあっても、民衆救済を最大の目的として、仏の正法を説き弘めよと呼びかけているのです。
「万人の救済」が仏の願いです
したがって、闇が最も深い末法の民衆の救済こそが、法華経の最大の関心事です。
まさに、法華経は、そうした末法の人々のために説かれた経典ともいえます。
法華経の内容を見ても、釈尊の時代の救済よりも、仏の入滅後、とりわけ末法の救済に重点が置かれていることが分かります
特に、末法において大良薬ともいうべき法を流布する使命を託す「儀式」が全体の主題(テーマ)となっています。
あらゆる時代、あらゆる場所から総結集した仏や菩薩に、末法の広宣流布を託していくのです
その儀式の舞台が「虚空会」です。
虚空とは「空中」、会とは「会座」すなわち説法の場です。
虚空会のお話は、以前【法華経】のブログに詳しく記載されています。
また是非ゆっくりとご覧ください。
本ブログの目次よりご覧になれます。
その虚空会で未来の広布を託されるために呼ばれたのが地涌の菩薩です。
一切衆生を成仏させる法を説けば、必ず難に遭う。
釈尊も大難の連続であった。
しかも法華経には、末法にこの法華経を弘めれば必ず釈尊の難を超える大難が競うことが説かれている。
「猶多怨嫉・況滅度後」怨嫉(反発し敵対すること)釈尊在世の時であっても法華経を信じる人が少なかったのに、釈尊亡き後は更に法華経を広める事は困難である。
「六難九易」およそ不可能な九易でさえ、六難に比べればまだ易しい。六難(法華経を六の方法で学ぶ事)九易(とてつもなく難しい九つの項目)
「三類の強敵」(我々の平和を邪魔する者達)俗衆増上慢、道門増上慢、僭聖増上慢
「多怨難信」(仏を怨み迫害して信じようとしない事)
そして、これらの大難を耐え忍び、民衆の中で弘教に励む行者こそ、日蓮大聖人「法華経の心」の体現者なのです。
まさに、忍難は慈悲のあらわれにほかならない。
【仏の未来記】
仏法は末法悪世の人々を救う大良薬


