法華経【第六章】授記品その3
四大声聞への授記
法華経と共に
前回は、迦葉の「授記」までの話で終わりました。
残り三人の「劫」すなわち成仏する時代の名前、「国」すなわち成仏する国土の名前、「名号」すなわち仏としての名前などが具体的に示されます。
その続きを始めましょう。
次の、須菩提への授記では、
「宝」という言葉がキーワードになっています。
国の名前の「宝生」は、文字通り、宝を生みだすものという意味です。
また劫の名前の「有宝」は、宝の輝きという意味です。
仏の名前である「名相」は、名声の様相がある者という意味です。
須菩提は、有名な「祇園精舎」を供養した須達長者の甥です。
祇園精舎の供養のさいに、釈尊に出会って弟子になったとされます。
また、出家してからも、つねに布施を実践し、無諍第一(心に争いがない境地の人の第一人者)、被供養第一(供養を受けるにふさわしい人の第一者)とされています。
布施の実践に優れていたことが、「宝」のイメージにつながっているのかもしれません。
しかし、より根本的には、法華経で真実の「智慧の宝」「生命の宝」を得たことを象徴しているのでしょう。
信解品(第四章)では、四大声聞が、自身の生命に仏界が具わっているという発見を「無上の宝聚を求めずして、おのずから得たり」と喜んでいます。
それと関連するかもしれませんが、須菩提は、信解品の冒頭で「慧命須菩提」と呼ばれています。
「慧命」とは、「智慧を命とする人」という意味で、仏の別名でもある。
また「生命力ある人」「長生きの人」という意味もあります。
須菩提は智慧に優れていました
釈尊の弟子のなかで、解空第一(空の法理を理解することの第一人者)とも言われます。
空を説いた多くの般若経典で、釈尊の説法の相手となっています。
とくに「大品般若経」等では、菩薩に対して仏の完全な智慧(般若波羅蜜)を説くように命じられているほどです。
しかし須菩提自身は、まだ二乗の智慧にとどまっていた。
人には説いたけれども、自分が仏の完全な智慧を求めようとはしていなかった。
信解品では、そのことを反省している。
そして法華経を聞いて、仏の智慧を得る道、つまり成仏の道に入ることができた。
「無上の宝」を得ることができたのです。
それで、仏界という生命の内なる「宝」を輝かせて、「名声高い仏」に成れると授記されたのではないでしょうか。
次に、迦旃延への授記では、劫、国については記されず、「閻浮那提金光」という名号だけがあります。
これは閻浮河から採れた砂金の輝きという意味です。
「閻浮河」とは、雪山の北側にあるとされた理想郷、閻浮の林を流れる河で、そこで採れた砂金は格別に美しく輝くとされていました。
迦旃延の肌は、金色に輝いて美しかったと伝えられています。
おそらくは、このことをふまえた名前だと思います。
慈悲と智慧によって、黄金のごとく輝く仏の人格を示す名前でしょう。
こうして見ていくと、弟子たちの個性をふまえて命名されていることが分かってきます。
しかも、個性が仏の徳性として昇華されています。
最後は、目連です。「多摩羅跋栴檀香」という仏の名前は、「タマーラ樹の葉と栴檀の木の香」という意味です。
どちらも粉にして香料とされ、体に振りかけたり塗ったりしました。
また、祭火にくべて使うこともあります。
「喜満」という劫の名前は、安らぎ喜びに満ちあふれた、との意味です。
また、「意楽」という国の名前は、心を楽しませるところを意味します。
この劫・国・名号は、目連が神通第一とされることに関係があるようです。
彼には、数多くの神通のエピソードがありますが、そのなかで、しばしば壁画などに描かれている話があります。
それは、梵天を敬服させ、釈尊に帰依させる話です。
ある時、目連は、天高く梵天たちの住む所まで上がり、火炎の中で禅定している姿を示す。
そのまばゆい光は、世界の創造主とされていた梵天も経験したことがないほど明るかった。
目連は「自分は釈尊の弟子だ」と名乗る。
梵天は配下を使いに出して、「あなたのような偉大な神通をもった人が釈尊の弟子には多いのか」と問う。
「多い」との答えを使いから聞いた梵天は、大歓喜を起こし、釈尊への帰依を誓います。
娑婆世界の主である梵天が、大歓喜につつまれたのです。
その喜びは、全世界に広がり、満ちたにちがいありません。
弟子が自身の姿を見せることによって、師匠の偉大さを教える
これほど師匠にとっても弟子にとっても、誉れあることはないでしょう。
「祭火にくべる香料の名」を目連が成仏した時の仏名としているのは、このエピソードでの火炎のイメージがふまえられているのではないでしょうか。
また、その輝きが全世界を喜ばしたので「喜満」「意楽」の劫名・国名が付けられたのだと推測できます。
大事なことは、自分の個性や人生経験を、すべて仏の徳性として輝かしていけるということです。
信心しているかぎり、むだなものは何ひとつない。
これが法華経の大功徳です。
いずれにしても、その人にぴったりの、すばらしい劫・国・名号を聞いて、本人も周囲の人も、「本当に自分が成仏できるのだ」「あの人が立派な仏になれるのだ」と実感できたのではないでしょうか。
授記を聞いた人々に歓喜の輪が広がっていったのも、そのためでしょう。
あの人もこの人も尊い、そしてまた自分もと、皆が平等に成長していく、それが仏法者のあり方だと思います。
法華経の世界が、そうですね。
すべての人が成仏できるのだ。
その無上の道を、自分も一緒に歩んでいこう、仏が一仏乗を明かすことによって、そういう世界が現出したのだと思います。
「一仏乗」とは、成仏という目的地へ向かって「間違いなき軌道を行く乗り物」に譬えられる
仏の慈悲を原動力とし、智慧を眼として走るから、正しい軌道を行けるのです。
成仏への正しい軌道に入ることが、法華経の一仏乗を「信解」する功徳です。
それを仏が保証するのが「授記」です。
その授記が、さらに人々の歓喜を生み、確信を生むのです。
そうやって、成仏への無上の軌道を歩む人の輪が広がっていくのが、法華経の世界なのです。
法華経【第六章】授記品その3


