【娑婆即寂光】
苦悩の世界を「より良い社会」へ
「仏法即社会」という考え方は、法華経にしか説かれていないと、前回は、学びました。
具体的に、「現実を離れて仏法は無い」「社会や生活という現実の営みは、仏法に反するものでは無い」そう見るのが「仏法即社会」でした。
例えば、そうした法華経の法理の一つに「娑婆即寂光」があります。
「娑婆」とは、苦悩が充満している人間世界の事です。
「穢れた国土」を意味する「穢土」という言葉も同じ内容です。
また「寂光」とは、仏が住む清浄な国土の事です。
「寂光土」「仏国土」、あるいは「浄土」とも言います。
順番に考えてみましょう。
まず、法華経以外の大乗経典には、阿弥陀仏や大日如来という仏が登場します。
これらは、釈尊が禅定の世界で説かれた仏です。
当時の衆生やお弟子様方に合わせて説かれた教えです。もちろん現在の我々には何の効力も無いのです。
病気で例えれば、風邪をひいた患者さんには風邪薬を頭が痛い患者さんには頭痛薬といった感じで。教えもそのつど変わるものです。
この事を知らない衆生は、救いを求め、苦悩の現実を離れて、どこか遠くの阿弥陀仏の国土に生まれることを目指すしかありません。
これに対して、法華経の考え方は根本的に違うのです。
法華経寿量品の仏は、この現実世界(=娑婆世界)に飛び込んで、永遠に民衆を導き続ける仏。それを説法教化といいます。
どこか別の場所に仏国土を求めるのではなく、この娑婆世界の中に出現して教えを説き続ける事が明かされているのです。
ですから、悩み、苦しむ人々を離れて「寂光土」はありません
これが「娑婆即寂光」です。
この原理のままに、現実の社会、生活に向き合い、大切にするのが、日蓮大聖人の仏法なのです。
しかし、現実の世界は矛盾や苦悩が尽きることがありません。
理想の仏国土だと言われてもピンとしませんが。
ある意味で私たちの胸中に理想の仏国土の姿がくっきりと映ることが、大いなる希望の出発点となるのではないでしょうか。
必ず仏国土は実現できる。
その確信がなければ、現実変革への第一歩は生まれません。
仏法は道理です。理想にほど遠い現実の課題が次々に生じてこようと、それでも現実を変えて行かなければならないと戦い続けてこそ真の仏です。
絶対に諦めず、粘り強い対話を繰り返して、民衆の幸福を実現する社会を建設し続けていく。
どこまでも現実変革の行動を離れて仏法は存在しません。
そうなんです。
根本は、一人一人の生命観の変革だと思います。
それも、より良い「社会のあり方」を目指してのことです。
仏教は、民衆の幸福の為の「より良い社会」を追求しています。
日蓮大聖人の仏法の目指すものは、「一人一人の幸福」と「社会の繁栄」が実現される事です。
「自他ともの幸福」の実現へ、民衆が仏法の智慧によって社会そのものに働きかけて行く。
この現実世界を「寂光土」へと変えて行く働きなのです。
「娑婆即寂光」
この現実社会こそ、本来、浄土なのです。
そして、その本来の浄土を実現して行く為に努力して行く事にこそ、仏教の精神が有るのです
「浄土」という語には、「浄仏国土」つまり「仏の国土を清浄にする」という積極的、実践的な意義が込められています。
本来、ここに「浄土」の意義があるのです。
【娑婆即寂光】
苦悩の世界を「より良い社会」へ


