化城喩品(けじょうゆほん)その3法華経【第7章】
十六王子の大通覆講
法華経と共に
いよいよ大通智勝仏の出家する前の子どもであった十六人の王子が登場します。
そのなかの十六番目の王子が、釈尊です王子たちは、父が成道したことを聞き、父のもとに向かいます。
そして、説法を要請します。
また、十六王子だけではなく、四方(東西南北)、四維(東南・南西・西北・北東)、そして上・下の十方の世界の梵天が、こぞって、大通智勝仏の説法を請います。
いわゆる「梵天勧請」ですが、それが宇宙大の規模でなされ、その様子がくわしく説かれています。
そのなかで、「大悲」「妙法」「尸棄」(しき)という四人の梵天王の名前があげられています。
「尸棄」は代表的な梵天王の名ですが、それ以上は、通常のインド神話の中では登場しません
「救一切」「大悲」「妙法」などの名があげられているのは、衆生を救済するために、大慈悲で妙法を説き弘めていく仏の出現を持つ心を表しているのではないでしょうか。
大通智勝仏が出現する前は、衆生は苦悩し、時代は行き詰まっていました。
経文では、その閉塞状況を「冥(くら)き従(よ)り冥きに入り」と表現しています。
人々は闇から闇へという悪の流転を止める仏の出現を、生命の奥底では求めていました。
その心が表されています。
十六王子や梵天の要請に応えて大通智勝仏が説法を始めますが、その時、最初に説いたのは四諦および十二因縁の教えです。
これを聞いて多くの声聞衆が誕生します。
しかし、十六王子は、四諦・十二因縁の説法に満足せず、仏の真実の悟りを説かれるよう、さらに求めます。
四諦・十二因縁の法は、仏の悟りの一面を示した方便の教えです。
いろいろ言うべきことはありますが、要するに、これらの教えの基本は、苦しみの原因である煩悩を滅することによって、安穏な境地を得る、という点にあります。
しかし、煩悩を滅するというのは方便であり、仏の本意は、自分が得た無上の悟りを万人に得させることにあります。
そこで、十六王子という人を得て、かつ、時を待って法華経を説き、本意を明かすのです。
大通智勝仏は八千劫の間、法華経を説いた後、さらに八万四千劫の間、禅定に入ったと説かれます。
そして、菩薩となった十六王子は、大通智勝仏が禅定に入っている間、また、その後も、仏と同じく法華経を説いていきます
これがいわゆる「大通覆講」です。
覆講(ふつこう)とは、師が説いた法華経をふたたび説くという意味です。
大通智勝仏と十六王子が説いたのは、どちらも同じ法華経であった。
十六王子は、まさに師弟不二の道を歩んだのです。
十六王子は菩薩として法華経を説き、それぞれ無数の衆生を教化しました。
これらの衆生は、それぞれの師である菩薩とともにさまざまな仏の国土に生まれ、師の化導を受けます。
有名な「在在諸仏土 常与師倶生(在在=いたるところの諸仏の土に、常に師と倶(とも)に生ず)」とは、このことです。
そして最後に、釈尊は、十六番目の王子が釈尊であり、その教化された衆生が、今の声聞たちである。また滅後の声聞であると明かします。
そのうえで、声聞たちに、こう語りかけます。
「私は十六番目の菩薩として、かつてあなたがたのために法華経を説いた。このゆえに方便を用いてあなたがたを導き、仏の智慧に向かわせてきたのである。この本因縁を以て、今、法華経を説いて、あなたがたを仏道に入らせるのである」と。
以上が釈尊と声聞たちの「宿世の因縁」です。
方便品(第二章)や譬喩品(第三章)の説法を領解できなかった富楼那、阿難などの声聞は、この化城喩品の因縁を聞くことによって初めて得道し、次の五百弟子授記品(第八章)、受学無学人記品(第九章)で成仏の授記を受けることができました
釈尊と声聞たちの、深い深い「結びつき」が明かされてきたわけです。
その根源は三千塵点劫の昔、大通智勝仏の時に、釈尊から法華経を聞いたことにある。
それが「下種」です。
その時、声聞たちは法華経を聞いて、仏つまり大通智勝仏と同じ無上の悟りを得たい、という「願い」を生命の奥深くに持った。「求める心」が起こったのです。
五百弟子授記品では、声聞たちが「世尊は長い間、つねに私たちを憐れんで教化してくださり、無上の願いを植えてくださった」と、言っている。
下種されたとき、生命に「無上の願い」が植えられたのです。
「無上の願い」とは、仏の無上の悟りを自分も得たい、という願いでしょう。
それを得られるというのが、法華経の教えでもあるのです。
仏の無上の悟りとは、衆生を救う慈悲と智慧の顕現ですから、それは「仏のように一切衆生を救いたい」という願いでもあるのではないでしょうか。
同品では、富楼那の言葉として「ただ仏世尊だけが弟子たちの、深心の本願をご存じである」ともあります。
「深心の本願」とは、心の奥底にもっている本来の願いということでしょう。
「無上の悟りを得たい」「一切衆生を救いたい」という願いを、だれもが本来、持っているということだと思います。
それが「仏性」ではないでしょうか。
法華経では「仏性」という言葉は出てこない。しかし「生命根源の願い」というかたちで、仏性を表現しているのかもしれない。
そうすると、「過去の因縁を知る」ということは、「生命の根底にある願いを知る」ことに通じ、「自己の根底の仏性を知る」ことに通じるわけです。
化城喩品(けじょうゆほん)その3法華経【第7章】


