【教学と法華経】13. 法華経は、誰に受け継がれていくのか❣️幸福へのカギを握るのは誰か。

教学と法華経

【末法への付嘱】
全人類救済の大願を未来へ託す

ここまでの内容で、法華経がいかに優れた経典であるか、理解が深まりました。

しかし、この法華経の教えは、だれが引き継いたのでしょう。

‘‘民衆救済の実践,,を受け継ぐ人が現れなければ、法華経の示した‘‘万人を仏に,,との願いは絵空事になってしまいます。

後継者が続くかどうかは仏法で重要な問題です。

法華経では、万人成仏を実現していく使命が、釈尊から弟子たちに託されます。

これが、虚空会の説法の中で示された法華経の主題(=テーマ)です。

とりわけ、悪世に、この法華経を、だれが弘めていくかが一番の関心事となっていたのです。

悪世というのは、まさに末法のことです。

仏法の教えが混乱して、救済力が失われる時代に、どう民衆を救っていくか。

実に大事な主題だと思います。

虚空会の説法では、例えば、三類の強敵(法華経を弘通する人を迫害する三種類の強敵)などが説かれます。

そして、悪世に法華経を弘めることが、どれだけ困難極まりないものかが示されていきます。

そして、あらゆる困難を乗り越えて‘‘私たちが法華経を弘めていきます,,と、あらゆる国土から集まった菩薩たちが名乗りをあげます。

しかし、その菩薩たちを退けて、釈尊は別の菩薩たちを、大地の下から呼び出します。

これが地涌の菩薩です。

久遠実成によって釈尊の真実の境地が示されますが、その釈尊が、久遠の昔に成仏した時からずっと教え育んできたのが地涌の菩薩です。

そして、釈尊は、如来神力品第二十一において、地涌の菩薩に対して、仏の一切の法と実践を付嘱します。

「付嘱」とは、仏から、教えの肝要と、滅後の弘教(法華経を弘めること)を進める‘‘使命,,を託されることをいいます。

神力品では、この地涌の菩薩を代表して、そのリーダーである上行菩薩に未来の広宣流布を託します。

さらに嘱累品第二十二では、地涌の菩薩以外の菩薩を含めて一切の菩薩らに付嘱がなされます。

しかし、こうした付嘱のあり方が示しているのは、釈尊の滅後、特に悪世末法に正法を弘める‘‘主役,,はあくまでも地涌の菩薩にほかならないということです。

そもそも、地涌の菩薩と、それ以外の菩薩とは全く違うからです。

久遠実成の釈尊と同じように、地涌の菩薩は‘‘成仏のための根源の法,,すなわち妙法を持っていて、そして人々の成仏のために、その妙法を説き弘めていける力を具えているからです。

それは、成仏して以来、限りない時間にわたって、この現実世界で民衆を救い続けてきた真実の仏と同じ‘‘生き方,,を、地涌の菩薩も身につけているということでもあります。

それゆえに、妙法を弘める人への迫害が、ますます激しくなる末法にあっても、民衆救済へ行動し続けていけるのです。

仏と地涌の菩薩は、その境涯は‘‘一体,,です。

しかし、菩薩の姿で悪世末法に妙法を広宣流布する使命を帯びているのです。

いわば、釈尊亡き後、その真実の弟子が万人を成仏させる妙法を本格的に弘めていくことを示しているのが、地涌の菩薩への付嘱です。

法華経には、この上行菩薩が末法の人々の闇を照らす太陽であると説かれています。

日蓮大聖人は、この上行菩薩というお立場を示しながら、万人の成仏を実現する南無妙法蓮華経の仏法を弘められていったのです。

そして、更に、大聖人は「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」と仰せです。

この大聖人の教えを信受し、大聖人の御精神の通りに広布の実践に励む人たちが、地涌の菩薩なのです。

「仏と融合する境涯」「宇宙との一体感を味わう境涯」を、我が身に体現して登場したのが地涌の菩薩ではないでしょうか。

菩薩と言いながら、じつは仏である。

地涌の菩薩が「どこから」来たのか。

天台大師は「法性の淵底、玄宗の極地」に住していたと言っています。

つまり、生命奥底の真理であり、根本の一法である南無妙法蓮華経のことです。

宇宙の本源であり、生命の根本の力であり、智慧の究極であり、あらゆる法理の一根です。

地涌の菩薩は、その本源のエネルギーを体現している。

しかも菩薩です。

地涌の菩薩とは、妙法を根本とした「永遠の行動者」であり「永遠の前進」の生命です。

その、はつらつたるエネルギーを、わが生命にわき立たせていくのが、個人における「地涌の出現」です。

これまでの小さな自分の殻を叩き破っていくのです。

焦点は完全に、釈尊の入滅後にある。

未来にある。

未来の「広宣流布」にある。

この一点を見失っては、法華経の心はわかりません。

ここに「地涌の菩薩」の重大な、また不可思議な意義がある。

「地涌の菩薩」とは、内証の境涯が「仏」と同じでありながら、しかも、どこまでも「菩薩」として行動していくからです。

いわば「菩薩仏」です。

境涯が「仏」と師弟不二でなければ、正法を正しく弘めることはできない。

しかも現実の濁世で、世間の中へ、人間群の中へと同化して入っていかなければ広宣流布はできない。

この両方の条件を満たしているのが「地涌の菩薩」なのです。

だから神力品の最後に「斯の人は世間に行じて」とあります。

「世間に」です。

人間の中へということです。

【末法への付嘱】
全人類救済の大願を未来へ託す

タイトルとURLをコピーしました