(法華経と共に)[4]誰もが、成仏出来る❣️誰しも仏陀に、 なれる事に歓喜する。法華経【第三章】譬喩品

法華経

​誰しも仏陀になれる事に歓喜かんきする
譬喩品ひゆほん法華経【第三章】

法華経と共に

前回の法華経【第二章】方便品の説法の中で、舎利弗しゃりほつは釈尊の話を聞いて歓喜致しました。

譬喩品ひゆほんは、舎利弗の深い歓喜の言葉から始まります。

の時、舎利弗は踊躍歓喜ゆやくかんきし、すなわちて合掌す」

通解舎利弗は踊りあがって喜び、起って合掌したのです。

しかし、他の弟子たちは、まだ分かっていません。

法華経の第一章では説法を始める準備をしました。

第二章では色々と訳あって今までの教えには方便を使わせてもらったと釈尊が皆に説明します。

そして第三章では色々なたとえ話しをもって皆に説明していくのです。

そこで舎利弗は、他の弟子たちの為に、「いまだかつて聞いた事の無い法」のいわれを説いてください、と釈尊にお願いします。

それに応えて説かれたのが「三車火宅さんしゃかたくたとえ」です。

釈尊は語り始めます。ある町に年をとった一人の大長者が居ました。

長者の家は大邸宅だいていたくでしたが、古くて、建物はかたむき、ボロボロの状態でした。

その古い大きな家に突然、火事が起こり、たちまち家屋敷いえやしき全体が火に包まれてしまいます。

家の中には、長者のたくさんの子供達が居ました。

家が燃え、くずれ落ちようとしている。

危険がいよいよ我が身にせまっている。

しかし、遊びに夢中になっている子供達は、その事に誰も気づかないし、気づこうともしない。

大聖人は「三界はやすきこと無し お火宅のごとし」

通解焼けている家は、煩悩の炎に包まれた現実世界(三界)をたとえています。

長者は火宅に飛び込み、子供達に早く家から出るようにげます。

しかし、遊びに夢中になっている子供達は、火事だという事が分からない、焼け死ぬという事がどういう事なのかも分からず、ただ家の中を走り回っています。

そこで長者は、一計いっけいあんじて、子供達に「お前たちが欲しがっていた羊の車、鹿の車、牛の車が門の外にあるから。早く家から出なさい。好きな車をあげるから」と呼びかけます。

すると子供達は、喜びいさんで争う様にして燃えさかる家から走り出ます。

こうして子供達は救われました。

子供達が、早く約束の車をくださいと父に言います。

長者は、羊鹿の車では無く、「等一とういち大車だいしゃ」をあたえます。

それが「大白牛車だいびゃくごしゃ」です。

つまり、羊車ようしゃは「声聞しょうもんの為の教え」、鹿車ろくしゃは「縁覚えんかくの為の教え」、牛車ごしゃは「菩薩の為の教え」です。

そして、実際に子供達に等しく与えた大白牛車は一仏乗いちぶつじょうすなわち「仏になる為の唯一の教え」を譬えています。

釈尊が伝えたかった事は、「長者」は仏、「子供達」は一切衆生と言う事です。一切衆生とはその場に居たお弟子様方と現代の我々に当たる訳です。

子供達が火宅かたくで遊んで居るのは、衆生が苦悩の世界に居ながら、その事に気づかず、やがて苦しみの炎に焼かれてしまう事を表しています。末法においては現代の我々の事です。

羊車ようしゃ鹿車ろくしゃ牛車ごしゃで、子供達の気を引き付けたのは、仏が衆生を救う為に、衆生の機根に合わせて、三乗(声聞・縁覚・菩薩の為の教え)を説く事です。これが法華経を説くまでの教えです。

大白牛車をあたえたのは、仏の真意は三乗では無く一仏乗いちぶつじょうで有ると明かす事。それを「開三顕一かいさんけんいち」と言うのです。

舎利弗しゃりほつは、この一仏乗を前回の方便品で聞いて。

踊る様にして、喜んだのです。

法華経までの教えでは、何度も生まれ変わって、ようやく徳を積んで成仏出来ると説いてきました。

(一仏乗=誰でも仏になれる教え)

今回の譬喩品ひゆほんは、皆に分かりやすく、釈尊が譬えて説明する場面となっています。

経文には、長者は蔵にたくさんの宝を持っており、そこから取り出した金・銀・瑠璃るり碼碯めのうなどの七宝で作られた車が「大白牛車だいびゃくごしゃ」です。

その車に取り付けられた欄干らんかんの四方には、鈴が金の縄でつなぎ合わせられています。更にその上には、真珠の網が張りめぐらされています。

車を引く白牛びゃくごうも見事です。清らかな皮膚ひふをして、歩く時には、平らに真っ直ぐ歩き、走る時は疾風はやての様に走ります。この宝の車に乗って、子供達は自由自在に楽しんだと説かれています。

もちろん経文ではこの物語を釈尊は長々と語った事でしょう。それは衆生を悟りに導く為に語ったのです。

大白牛車だいびゃくごしゃ」とは、いかなる険難けんなんみねも自在に走り回り、さえぎる物は無いという仏の大境涯を譬えられています。

大聖人も、「法性ほつしょうの空に自在にとびゆく車をこそ・大白牛車とは申すなれ」と明快めいかいに仰せになっています。

大白牛車とは、法華経その物です。

その実体は、仏の妙なる生命です。

南無妙法蓮華経の大生命その物です。

なぜ、ここで南無を使うのか、また妙法蓮華経なのか。それはこの当時のお弟子様方と同様に我々も釈尊のお話をお聞きし帰命し。また法華経を広めますよと、言う意味では無いでしょうか。

ゆえに大聖人は「そもそも法華経の大白牛車と申すは我も人も法華経の行者の乗るべき車にてそうろうなり」と断言だんげんしておられます。

法華経では、この様に譬えて釈尊が訳される事が多い事から。

広く万人からも親しまれておりました。

世界最古の長編ちょうへん小説と言われる「源氏物語」においても、法華経が最も多く言及げんきゅうされています。

登場人物たちが主催しゅさいする重要な仏事にも「法華八講ほっけはっこう」と呼ばれる法華経の講義が多く登場します。

また、物語の中では、二十三歳の主人公の光源氏が天台三大部と、その注釈ちゅうしゃくしょを合わせた六十巻を読んだとしるされ、法華経に精通している様に設定されています。(天台三大部=当時の法華経の翻訳書ほんやくしょ

法華経の譬喩ひゆは、衆生の機根に応じて説かれた随他意ずいたいの言葉では無い。「仏の心」を明かし、人々を「仏の心」へと引き入れる「随自意ずいじいの譬喩」なのです。

大聖人は「法華経は随自意ずいじいなり一切衆生を仏の心にしたがへたり」と仰せです。

衆生の心が「仏の心」と一体になる為に説かれたのが、法華経の譬喩ひゆです。

法華経の譬喩は、衆生を仏の境涯に高める力を持っているのです。

境涯が高まれば智慧が生まれます。

だから弟子達も譬喩を説けたのです。

自分達の成仏の確信に触れて、皆大歓喜に湧き上がりました。

​誰しも仏陀になれる事に歓喜かんきする
法華経【第三章】
譬喩品ひゆほん

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