化城喩品(けじょうゆほん)完結 法華経【第七章】
化城宝処(けじょうほうしょ)の譬え
法華経と共に
化城喩品では、仏と在世の弟子たちとの因縁を説いた後、さらに「化城宝処の譬え」が説かれます。
譬喩の題材になっているのは、砂漠を旅する隊商の一行です。
宝のある場所(宝処)をめざして五百由旬(ゆじゅん)もの険しい遠路を、一人の導師に導かれた隊商が行きます。
しかし、途中で人々は疲労の極に達し、もうこれ以上進むことはできない、と導師に言います
ここで引き返しては、これまでの苦労がむだになってしまいます。
すばらしい宝を捨てて、なぜ帰ろうなどと言うのか、と人々を憐れんだ導師は、三百由旬を過ぎたところに神通力によって一つの城(都市)をつくり、あの城に入れば安穏になれると励まします。
この言葉を聞いて歓喜した人々は進んでその城に入り、疲れきっていた体を休めました。
人々が休息を十分にとったことを確認した導師は、その城をたちまちに消し去り、あの城は、あなたがたを休息させるために私がつくった幻の城にすぎない、真の目標である宝処は近い、と説くのです。
導師が見せた幻の城(化城)とは、仏が衆生を導くために説いてきた三乗の方便の教えを譬え、宝処とは衆生が最終的にめざすべき一仏乗を譬えています。
とくに二乗の悟り(化城)は方便で、仏の無上の悟り(宝処)のみが、めざすべき真実の悟りであることを明かしています。
だれもがイメージできる、分かりやすい譬えですね。
人々は三乗の教えに安住しがちでしたが、仏は低い境涯でよしとする心を打ち破って、一仏乗という真実の目的を示しました
そのことが幻の城を仮につくって、さらにそれを消滅させるというところに表されています。
その通りですが、しかし、それはまだ一往の義です。法華経の文だけを読めば、「化城を去ってその後に宝処に至る」と取るのが自然です、日蓮大聖人はそのような解釈からさらに進んで、化城と宝処は別々ではなく「化城即宝処」である、と仰せです
「御義口伝」の次の御文で。
「十界皆化城・十界各各宝処なり化城は九界なり宝処は仏界なり、化城を去って宝処に至ると云うは五百由旬の間なり此の五百由旬とは見思塵沙無明なり、此の煩悩の五百由旬を妙法の五字と開くを化城即宝処と云うなり、化城即宝処とは即の一字は南無妙法蓮華経なり念念の化城念念の宝処」
読み仮名
「十界皆化城・十界各各(おのおの)宝処なり化城は九界なり宝処は仏界なり、化城を去って宝処に至ると云うは五百由旬の間なり此(こ)の五百由旬とは見思塵沙無明(けんじじんじゃむみょう)なり、此の煩悩の五百由旬を妙法の五字と開くを化城即宝処と云うなり、化城即宝処とは即の一字は南無妙法蓮華経なり念念の化城念念の宝処」
化城を方便、宝処を真実として別々にとらえた場合、方便は手段、真実は目的ですから、手段によって目的に到達するという発想になります。
それに対して「化城即宝処」ととらえる場合は、「手段のなかに目的が含まれているということになります。
目的と手段を別々なものととらえた場合には、あくまでも価値があるのは目的であって、手段は二義的なものとなります。
目的が達せられるならば、途中の過程はどうでもいいということになりがちです。
仏界を目的とするならば、九界はそれまでの過程となる。
しかし「九界を脱却して仏に至る」という発想では、九界と仏界は相いれないものとなり、九界即仏界にならない。
それは、「御義口伝」に示されているように、三惑(見思惑=けんじわく・塵沙惑=じんじゃわく・無明惑=むみょうわく)を断じて悟りに至る、という爾前権教(にぜんごんきょう)の考え方です。
法華経の本意は九界即仏界、方便即真実ですから、化城と宝処は別々のものではない。化城即宝処なのです。
その立場に立てば、じつは過程がそのまま目的であります。
つまり、仏道修業の果てに成仏があるというのではない。
仏法を行じ、弘める振る舞いそのものが、すでに仏の姿なのです。
日寛上人が「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」と言われているのと同じ意義です
人間ではない、「超人」的な仏がどこかに存在するというのではない。
大聖人が「仏とは九界の衆生の事なり」と仰せのように、妙法を持(たも)ち、弘める凡夫がじつは仏である、ということが大聖人の仏法の真髄なのです。
仏の境涯とは、一つ一つの振る舞い、一瞬一瞬に仏の智慧と慈悲が現れているということです
まさに「念念の化城念念の宝処」なのです。
そしてまた「即の一字は南無妙法蓮華経なり」と仰せられていることが重要です。
九界の現実のうえに仏の境涯を顕していく、その原動力が南無妙法蓮華経であるとの仰せです
化城即宝処の法理とは、広宣流布とは流れそれ自体であり、仏法弘通の実践そのものが広宣流布なのです。
仏法弘通の息吹そのものが大切であります。
途中は、すべて手段だと考える人間が出てきてはいけない。
そういう人は、目的のために人間を手段にし、多くの犠牲を生んだ、従来の革命運動の過ちを犯してしまう危険がある。
仏法は、あくまでも「人間のための宗教」です。
どのような場合であれ、人間を手段とし、犠牲にするようなことがあってはならない。
前進するためには、目標という「化城」を設定しなければならない。
しかし、その「化城」に向かっての前進、行動は、深く見れば、それ自体、仏の所作なのです
その舞台が、すでに「宝処」なのです。
成仏といっても双六の「上がり」のようなものではないです。
最終的な到達点があるというように説くのは、やはり一つの「方便」であって、実際の生命は生きているかぎり動いているのですから、動かない到達点があるというものではないのです。
広布のために戦い続けていくことそれ自体が仏である、と言うべきです。
だから、すべての行動を楽しんでいくことです。
苦しみきった仏の所作などない
「さあ喜んで、広宣流布の苦労をしていこう」「さあ、またこれで福運がつく」「また境涯を広げられる」と喜べる自分になれば、それ自体、仏界が輝いている証拠です。
反対に、「ああまた次の目標か」と、グチをこぼしているのでは、「化城即宝処」になりません。
グチをこぼすのも楽しい境涯になればいい。
生きているかぎり、何か問題があるのは当然です。
それをいちいち一喜一憂していたのではつまらない。
目標に向かって、懸命に挑戦する、ひたぶるに戦う。
歯をくいしばって道を開いていく。
振り返ってみれば、その時は苦しいようでも、じつはいちばん充実した、人生の黄金の時なのです。
三世のドラマの名場面なのです
大聖人は「今日日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は化城即宝処なり我等が居住の山谷曠野皆皆常寂光の宝処なり」と仰せられています。
読み仮名
「今日(こんにち)日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉(たてまつ)る者は化城即宝処なり我等が居住の山谷曠野皆皆常寂光(せんごくこうやみなかいじょうじゃっこう)の宝処なり」
これはまさに、妙法を持(たも)ち、行ずる私たちの境涯を教えられています。
いずこにあっても、いかなる境遇にあろうとも、私たちの根底は「歓喜の中の大歓喜」なのです。
化城喩品(けじょうゆほん)完結 法華経【第七章】


