【生命を映す明鏡】
内なる妙法を映し出し、顕すための御本尊
御本尊には絶大な功力が秘められています。
日蓮大聖人の生命が、そのまま認められています。
今回は、また別の観点から、御本尊の深義(じんぎ)について、理解を深めましょう。
日蓮大聖人は、ある女性の門下に対して、こう仰せです。
「此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持(たも)ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」
通解
この御本尊を決してどこか別の所に求めてはなりません。
ただ、私たちが法華経(御本尊)を持(たも)って南無妙法蓮華経と唱えるその身の胸中に、厳然といらっしゃるのです。
御本尊が私たちの胸中にあるということです。
戸田先生は、御本尊は‘’向こうにあると思って拝んでいるが、実は、私たちの命のなかに、お住みになっていらっしゃる,,と述べています。
御本尊と同じ生命が、わが胸中にあるのです。
ここで、考えてみてください。
ここまでいろいろ学んできて、成仏の根本法は、私たちからかけ離れたどこかにあるものでしょうか。
いいえ、そうではありません。
私たち自身の本来の生命は、妙法そのものであると、何度も教わってきました。
言い換えれば、私たちの胸中に妙法が秘められている、ということです。
大聖人は、こう仰せです。
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処(ところ)を仏とは云うなり」
ここで、「よびよばれて」と言われています。
呼び顕すのも自分であり、また呼び顕されるのも自分自身の胸中にある仏性(仏の性質、性分)です。
自分の中にある仏の生命を顕していくための御本尊、ということです。
いわば、私たちが拝している御本尊は、私たちの仏界の生命を涌現させていくための鏡になるのです。
「明鏡」ともいいます。
鏡が、その人の姿や動きを映し出すように、御本尊の明鏡は、私たちの胸中の妙法を映し出す力があるのです。
私たちの生活でも、物を映し出す鏡がなかったら、自分の顔を自分で見ることはできません。
同じように、自分のなかに十界があり、なかんずく仏界があると見るためには、本来の生命をありのまま映し出す明鏡が必要です。
つまり、私たちの胸中の御本尊を呼び顕すために、大聖人は、妙法と一体の御自身の仏界の生命を一幅(いっぷく)の御本尊として顕してくださったのです。
どこまでも自分の胸中の妙法を顕すための御本尊です。
そこで、大切なのは、私たちの胸中に具わっている仏の生命を引き出していくために、私たちが御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱える唱題行が必要となるということです。
妙法に則ってこそ、仏界は現せるからです。
「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」です。
御本尊の無量の功力を引き出す源泉は「信心」信じる心です。
私たちが御本尊を信受して、「広宣流布を目指す信心」に立って南無妙法蓮華経と唱えていけば、’’我が身がそのまま御本尊であり、日蓮大聖人と顕れる,,という言葉もあります。
どこまでも、私たちが、自身の無限の可能性を開いていくための御本尊なのです。
誰人の生命にも’’仏界が元来、具わっている,,というのが、生命の真理なのです。
この真理がなかなか分からない。
信じられない。
いったんは信じても、何かあると不信に陥りやすい。
それは、根源的な迷い、「無明」があるからです。
そこで、大聖人は、「観心」の実践にあたっては「明鏡」が必要だと仰せです。
その明鏡が、釈尊の「法華経」であり、天台の『摩訶止観』であり、末法にあっては大聖人の「御本尊」なのです。
「法華経」、『摩訶止観』は、自具の十界、なかんずく仏界を見、そして現すための鏡です。
「法華経」、『摩訶止観』は、それぞれインド、中国における、仏教流布の状況、文化・伝統・国民性などを踏まえてつくられた「明鏡」です。
それぞれが、己心の本尊を見るために意味があったのです。
大聖人は、それらを踏まえて、その真髄を一幅の曼荼羅に図顕され、この末法の時代の人類のための「明鏡」として残されたのです。
御本尊を持(たも)ち、強盛な信心によって自身の生命を仏界に染め上げていくのが、末法の成仏の修行なのです。
「万人を幸福に!」との御本尊の御心をわが心とし、御本仏のお使いとして行動していけば、わが胸中の仏界がさらに強く染められていく。
【生命を映す明鏡】
内なる妙法を映し出し、顕すための御本尊


