【宗教の目指すもの】
万人の幸福へ仏法の智慧を生かす
前回で「絶対的幸福」について学んで、真実の幸福は、友の為に祈り、励まし、ともに妙法に生き抜くなかにある事をお伝えしました。
真実の幸福は「自他ともの幸福」にあります。
日蓮大聖人の仏法を実践する人にとって、万人の幸福の実現とは、全世界に生きる人々の、一切の不幸と悲惨が取り除かれる事に他なりません。
確かに、現実の社会に生きる人たちが苦しんでいるのに、例えば、自分は滝に打たれて、悟りすましている。それでは、何のための宗教なのか、疑問をもちます。
社会を変革するにあたって、根本的な課題は、その社会を根底で支えている「人々の思想・哲学」にあるのです。
例えば、その社会を構成する人々が、迷いの生命に支配されていて、弱肉強食の思想が人々の生き方の基底部にあれば、その社会は修羅(=争い)の社会となります。
これに対して、法華経は、万人に「仏の生命」が具わると説きます。
誰もが平等に尊く、全ての生命が尊い事を教えています。
この思想が社会の基調になれば、人々が互いに尊敬し合う平等の社会が築けます。
日蓮仏法こそ、「一人の人間に無限の可能性を見る」法華経の思想を実現する力ある哲理なのです。
あらゆる人々の可能性を花開かせる、仏法の「人間主義」の哲学で、社会を潤していくのです。
仏法の人間主義を、社会の底流に、流れ通わせていくのです。
仏法者は社会の現実と真正面から向き合います。
鎌倉時代、相次ぐ天変地異に、あえぎ苦しむ民衆を救おうと、大聖人は、時の最高権力者に「正法」を信ずるよう諫められました。
そして、その大聖人の御精神は今、現代人に脈々と流れています。
御書
「智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候(そうろう)を智者とは申すなり」
通解
智慧ある人とは、社会の営みから外れて仏法を実践するわけではありません。現実社会において世を治める法をよくよく心得ている人を「智者」というのです。
私たち自身の生活はもとより、政治、経済、教育、文化等の社会的次元において、仏法の豊かな智慧を顕して行く事が、仏法者の社会的使命なのです。
現実を離れた宗教は、「死せる宗教」である。
平和の為、文化の為、社会の為に、どう貢献して行くか。
そこに仏法者の魂がある。
仏法者と言っても、仏法を「学習」している人の事を指すのです。
僧侶の格好をする訳ではありません。
【宗教の目指すもの】
万人の幸福へ仏法の智慧を生かす


