【絶対的幸福】
生きていること自体が楽しい。
御本尊を疑わずに、信心を生涯、続けていけば、必ず幸福な人生を築ける。
前回、「冥益」「顕益」について学びました。
信心の功徳とは「幸福な一生」になるという事なんです。
正確に言えば、今世だけでは無く、「永遠に崩れない幸福境涯」を確立して行く事が、仏法を実践して得られる功徳です。
それでは、「崩れない幸福境涯」とは一体、どういう「幸福」を言うのでしょうか。
例えば、病気の人であれば、病気を克服する事で、幸福を感じると思います。
しかし、その人が経済的に不自由を感じる様になった。
家族を十分に養って行けなくなった。
こうなると、例え健康でも、「幸福」とは感じられないのではないでしょうか。
環境や状況が変わる事で、左右されてしまう様な「幸福」では不十分だという事です。
それを「相対的幸福」と言い。
相対的幸福は、物質的に充足したり、願いが実現し、欲望が満ち足りた状態です。
しかし、欲望には限りがありません。
また、一時は満ち足りても、長続きしないものです。
「相対的」と反対に「絶対的」な幸福も有ります。
「何があっても壊れない幸福」
自身の生命を信心根幹に「仏の生命」へと鍛へ上げて行く事です。
それを「絶対的幸福」と言い。
自身に秘められた「智慧」や「勇気」や、あらゆる「生きる力」を発揮して、どんな悩みも苦しみも乗り越えて行けるのが仏です。
そうなれば、環境に左右される事なく、現実世界で価値創造して行く事が出来ます。
信心の実践で生命を磨き抜けば、私達も、そうした「仏の生命」を我が身に顕して行けます。
「どこに居ても、生きがいを感じる境涯、どこに居ても、生きていること自体が楽しい、そういう境涯です。」
どこに居ても幸福を感じるというのは、単なる気の持ち様ではありません。
信心していても、現に病気で苦しみ悩んでいれば、「幸福」とは言えないでしょう。
この場合、まず、真剣な祈りを根本に、健康を回復出来るよう病気に立ち向かって行くはずです。
もちろん、病気になる事が直ちに不幸であると言う事ではありません。
どう生きていくか、どう生きて来たかが大事です。
常に、信心で前向きに挑戦して行く、そういう積み重ねの中から、自身の生命が鍛えられ、どこに居ても、何があっても人生を楽しんで行ける様になるのです。
しかし、生きていること自体が楽しいというのは、ちょっと想像できないと思います。
自身の悩み、苦しみにだけ汲々としていたのが、友の悩みを我が悩みとして祈り、行動する人へと「人間革命」して、「生きることが楽しい」人生へと変わっていくのです。
他者に尽くす人生には、何ものにも代え難い喜びと充実があります。
また、人々が真の幸福を感じられる社会を建設することも、最高の「生きがい」に通じます。
何の為に生きるか。「自他ともの幸福を実現するため」に生きていくなかに、実は「真の崩れざる幸福」はあるのです。
自己の小さな満足を突き抜け、さらに全民衆の救済という大願に生きてこそ、日蓮門下の信心である。
そこに、永遠にして不滅なる広布の大河も開かれる。
また、佐渡に流罪されながらも、「喜悦はかりなし」と言われた、あの大聖人の御境涯に連なり、大歓喜にあふれた絶対的幸福境涯を会得しゆく直道もある
【絶対的幸福】
生きていること自体が楽しい。


