【転重軽受】
障魔と戦うことで悪業を消滅
一切の宿業を根本的に転換させるのが日蓮大聖人の仏法です。
大聖人は「地獄の苦しみぱつときへて」とも仰せです。
ぱっと消えて、それだけ妙法の力は大きいということです。
「転重軽受」という法門があります。
「重きを転じて軽く受く」と読みます。今世だけでなく未来にわたって受けていかなくてはならない重い報いを、現世に軽く受けて、罪業をすべて消滅させることができる、という教えです。
大聖人は、「広宣流布に進む信心」ゆえの難にあうことで、未来世にまで受けていかなくてはならない地獄のような苦しみが消えると仰せです。
信心ゆえの苦難が、実は、重い罪業を転じていくきっかけになるということです。
大聖人は、そのことを次のように説明されています。
「たとえば、民が郡や郷などに住んでいる時に、どれほど多くの借財を地頭等に借りたとしても、厳しく取り立てられることもなく、年々に返済を延ばしてもらえる。しかし、その住む所を出る時には、地頭から一挙に返済するよう厳しく取り立てられるようなものである」「借財」とは、今でいえば「借金」です。
つまり、過去世から悪業を「借金」にたとえられているのです。
大聖人が妙法の敵を強く責めた結果、本来、未来世に重く現れるはずだった宿業が一度に現れたことをたとえた御書です。
そして、それまで住んでいた場所を出ていく、こととは、私たちが妙法を実践し、「仏界を涌現する生き方」に一変したことを意味しています。
生命に「根本の善」を開き顕すこと、つまり生命の根源からの変革を進めた時、すべての悪業の苦悩から解放されることになるのです。
返済を迫られないことは、一見、平穏なようで、実は、ますます借財が積み重なっていくようなものなのです。
したがって「信心ゆえの難」は、本来なら、もっと大きく長期にわたって受けるべき業の報いを転じて軽く受けているのだと確信すべきです。
どんな苦難にも「信心」で立ち向かえば、宿命転換が可能になります。
言い換えれば、仏界を涌現して苦難に真正面からぶつかる時、これまで克服できないと思っていた罪業を消し去ることができるということです。
大聖人は「鉄は鍛え打てば剣となる。賢人・聖人は罵られて試されるものである。私がこのたび受けた処罰には世間上の罪は全くない。もっぱら過去世の業の重罪を今世で消し、未来世の地獄・餓鬼・畜生の三悪道の苦しみを免れるためのものなのである」と仰せられています。
これまでも学んできたように、妙法を実践し、妙法を弘めていくゆえに、さまざまな「難」が起きてきます。ある意味で、宿業も顕著に現れてくる場合もあります。
それが、先ほどの借財の取り立てですね。
最初は信心しているのに、どうして宿業が出て苦しまなければならないのかと思っていたのですが、宿業と戦うことで強い自分になれるということです。
妙法弘通の実践によって、難が競い起こり、そして、その難と戦っていく強い信心の力によって、今世で確実に宿命転換を果たすことができるのです。
信心ゆえの難はその意味で、宿命転換の好機となります。
いわば、大聖人の仏法は、回り道をしたり、課題を先送りするのでなく、今世の一生で宿命転換を可能とする「未来を開く仏法」なのです。
日蓮大聖人は仰せです。
「大難に値うを以て後生善処の成仏は決定せり」
大難にあうことによって(法華経に説かれた「現世においては安穏」)「後に善き処に生まれる」という成仏が決定すると。
大難にあってこそ、成仏は決定する。三類の強敵にあってこそ、未来永遠にわたる成仏が決まる。
三類の強敵の出現は、これで、必ず成仏できるという証なのです。
「御義口伝」に難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せです。
どうして難が来て安楽なのだろうと疑問に思うかもしれませんが。じつは、「難」と戦い、乗り越えてこそ、宿命転換があり、成仏がある。ゆえに「安楽」なのです。
その時は苦しくとも、一気に仏の大境涯を開けるのです。
【転重軽受】
障魔と戦うことで悪業を消滅


