【異体同心】
「信心の団結」があれば広布は前進
広宣流布の前進を実現に勝ち取っていく最大のカギとなるのが、「信心の団結」です。
信心の団結について日蓮大聖人は「異体同心」と説かれています。
「異体同心」とは「体は異なっていても、同じ心に立って力を合わせること」です。
異体とは、年齢、性別、職業、境遇、人生経験などが、人それぞれに違うこと。
同心とは、志、目的を同じくすることです。
仏法を学ぶ人にとっては「広宣流布」を目指して、心を一つにしていくことが「同心」です。
大聖人は、御書にて仰せです。
「『異体同心』であれば万事を成し遂げることができます」「日蓮の一門は『異体同心』なので、人数は少ないけれども、大事を成し遂げて、必ず法華経は広まるだろうと思っています」
現代では、日蓮大聖人の法華経教義は、全世界で行われています。
不可能を可能にできる、ということです。
「団結は力」です。一人ひとりの力を足し合わせただけの力ではなく、「掛け合わせた」力が、全体として発揮されます。
異体同心の団結とは、信心根本の広宣流布の実践によって、一人ひとりが仏界の生命を涌現し、生命に具わる無限の可能性を、開き著していく団結です。
仏界を顕した一人ひとりの団結であれば、その力は確かに計り知れないものとなります。
そして、また大事なことは、異体同心の団結とは、一人ひとりの個性が重んじられ、生かされていく団結だということです。それが「異体」という意味です。
仏法の眼から見れば、その人でなければ果たせない「役割」、その人にしか担えない「使命」が、だれにもあります。
例えば、野球を例にとれば、投手が九人いるチームを作っても勝利には直結しないのと同じようなものです。
勝利のためには、いい投手も、いい捕手も、そして打撃力も守備力も、いろんな才能をもつ人たちが必要になるはずです。
さまざまな職業、境遇の人が信心して、はじめて広宣流布は進んでいくと思います。
多種多様な人が「自分らしく輝いていける」のが、大聖人の仏法なのです。
そして、もう一つ大事なことは、異体同心の信心の集いにこそ、「信心の血脈」が通い、広宣流布への道がある、ということです。
私たちの人体の血管に、血が絶え間なく流れています。
それと同じように血脈とは、師匠から弟子へ仏法が、とどこおりなく受け伝えられることです。
しかも、本来、血脈とは仏から万人へ開かれているものです。
大聖人は仰せです。
「総じて日蓮の弟子檀那らが、自分と他人、彼と此との分け隔てなく、水と魚のように互いに助け合う心で、異体同心に南無妙法蓮華経と唱え奉るところを生死一大事の血脈というのである。しかも、今、日蓮が弘通することの肝要は、これである。もし、この通りに実践するならば、広宣流布の大願も成就するであろう」
生死一大事の血脈とは、生死の苦悩を解決していく「妙法」が、師から弟子へ受け継がれること。つまり、広宣流布へ異体同心の信心で唱える題目によって、「信心の血脈」が流れ通い、広宣流布の大願も成就するのです。
広宣流布を目指す唯一の異体同心の和合僧団(仏法実践者の集い)をたくさん作っていきたいものです。
信心の血脈が流れ通う団体だからこそ、和合僧団は大聖人の大願である「世界広宣流布」の道を築くことができるのです。
かけがえのない一人ひとりを大切にし、その可能性を花開かせながら、民衆の幸福を現実に広げていく。この異体同心の信心の実践は、全人類の幸福の実現へと向かう壮大な挑戦なのです。
異体同心というのは、現代でいえば「組織」ということです。
「異体」というのは、人それぞれ、姿も立場も、状況も使命も違う。
しかし「心」は、そして信心は「同心」でいきなさいという事です。
「異体異心」では、バラバラです。「同体同心」というのは無理やり、形も姿も心まで統一しようというのです。ファシズムであり、自由はない。
だれもついてこられず、格好だけ合わせている。結局、「同体異心」になってしまう。
「異体」とは個性を生かすということです。「同心」とは、信心を根本に、心をひとつにしていくことです。本当の団結です。
また、「たとえ、一人になっても自分は前進する」という「一人立つ」強さがあってこそ、真の団結はできる。決して互いに寄りかかるということではない。
【異体同心】
「信心の団結」があれば広布は前進


