法師品(第十章)完【法華経】
悪世に妙法を弘める人が尊い
法華経と共に
前回からの流れで、「法師」について学びますと、まさに「慈悲」ゆえに、あえて悪世に生まれてきたことが分かります。
法師品に、この人は「生ぜんと欲する所に自在」とあります。
願ったところに生まれてくると言うことです。
大聖人は、成仏した生命は九界の世界に、たちまちのうちに戻ってきて、自在に衆生を救っていくと述べられています。
私どもは、あえて、苦悩の世に生まれてきたのです。
「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は法師の中の大法師なり」と、大聖人は仰せです。
大聖人のお心を拝して、広宣流布のために生きている人々は、「法師の中の大法師」です。
そして、一回の人生を終えても、「須臾の間」に、また生まれてくるのです。
今世を戦いきって、霊山に行って、息をはずませ報告する。
「大聖人様!立派に使命を果たしてきました!」
大聖人は「ご苦労。よく頑張った。さあ次は、どこへ行くつもりか」と。
「少しぐらい休みたい」と思うひまもなく。
また、休みたい人は休んでいいのです。自在であるから。
「自在神通の慈悲の力」とある通り、慈悲ゆえに「須臾の間」また使命の庭に元気いっぱい戻ってくるのです。
きょう寝て、あす目が覚めるようなものです。
衆生を慈しみ、愍むゆえに、「願って」悪世に生まれてきた。
妙法大師は、そのことを「願兼於業<願いが業を兼ねる>」と呼びました。
法師は本来、仏道修行の功徳によって善処に生まれるところを、願って悪業をつくり、悪世に生まれて仏法を弘通するということです。
T先生も、「初めから立派過ぎたのでは人々の中に入っていけないから、われわれは仏法を弘めるためにわざわざ貧乏や病気の姿をとって生まれてきたんだよ」「人生は芝居に出ているようなものだよ」と、しばしば言われていたそうです。
またT先生は、「妻を失い、娘まで亡くした。事業も失敗した。そういう苦悩を知っているからこそ、会長となったのだ」とも言われています。
苦労もない。悩みもないというのでは民衆の心が分かるわけがない。人生の辛酸をなめた人であってこそ、人々を救うことができるのです。
自分の苦しみを「業」ととらえるだけでは、後ろ向きになる。それを、あえて「使命のために引き受けた悩みなのだ」「これを信心で克服することを自分が誓願したのだ」と、とらえるのです。
願兼於業は、この「一念の転換」を教えている。宿命を使命に変えるのです。自分の立てた誓願ゆえの悩みであるならば、絶対に乗り越えられないはずがない。
大聖人は、法師品の「大願を成就して、衆生を愍むが故に、此の人間に生ず」、および「衆生を愍むが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶ」の二つの文について、「御義口伝」には「大願とは法華弘通なり愍衆生故とは日本国の一切衆生なり生於悪世の人とは日蓮等の類いなり広とは南閻浮提なり此経とは題目なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり」と仰せです。
まさに妙法を世界に弘めている人々こそ、無量の福運を積み、広宣流布するために生まれてきた御本仏の本眷属なのです。
だから尊貴なのです。だから、互いに尊敬すべきなのです。
先日、インドの話が出ましたが、インドの国父、マハトマ・ガンジーは言っています。
「私がもし生まれてくるとしたら、不可触民として生まれてきたい。悲しみや苦悩や彼らに与えられた侮辱を分ちあい、みずからと不可触民をその悩める境遇から救い出すよう努めるために」と。
この心は「願兼於業」に通じる。慈悲です。「ともに生きる」ということです。
いちばん苦しんでいる人の中に、生まれてくるのです。
いちばん苦しんでいる人の中に、仏はいるのです。
いちばん苦しんでいる人を、いちばん幸福にするために仏法はあるのです。
法師品は、民衆のために、民衆とともに生きる「精神の指導者」の崇高な心意気を教えているのです。
法師品(第十章)完【法華経】


