法師品(第十章)衣座室の三軌編 その3【法華経】
三.「一切法空の座」
法華経と共に
さっそくですが、前回の続きから始めます。
第三に「一切法空が如来の座である」とは、どういうことなのでしょうか。
それは、自在の智慧ということです。すべてはつねに変化している。無常の存在である。空である。そういう世界の諸法実相を、ありのままに見て、何ものにもとらわれない境涯をさしている、と言えるでしょう。
言葉では理解できますが、実際にはなかなか、そういう境地にはなれませんね。
大聖人は「座とは不惜身命の修行なれば空座に居(こ)するなり」と言われています。
不惜身命の行動こそが、一切法空の座に居ることになるというのです。
人間は常として、何かに執着し、とらわれがちなものです。たとえば名声や地位などにとらわれ、それを手放したくないと惜しんでしまう。
それは人間として、ある意味では自然かもしれないが、その執着をあえて乗り越え、身命をも惜しまず戦っていくということが「空座に居する」ことです。
「我が人生を広宣流布のために捧げていこう」というのが信心です。その信心に「空」の極意がある。もちろん、それは命を粗末にするということではない。
自分の尊い生命を、仏のために惜しまず使っていくことです。
その不惜身命から、人を救う智慧も生まれるということです。
身を惜しまぬ自分になることが、人を救える自分になることなのです。
かつてT先生に、「折伏をするというのは、自分自身への折伏にも通じるものですか」と質問された青年がいた。
T先生は「自分自身が南無妙法蓮華経で生きているということです。それ以外に折伏はないのです。手練手管も方法もなにもありません。ただただ、自分は南無妙法蓮華経以外になにもない!と決めることを、末法の折伏というのです」と。
また「自分は南無妙法蓮華経だと決めるのが、最後の折伏です」とも言われていた。
青年に本当のことを教えておこうという、決然たる口調であったと。
「自分は南無妙法蓮華経だと決める」一切法空、そして不惜身命の意義を、ものの見事に表現しきっています。
この言葉を手がかりに、信心の真髄を探求するもよし。そこに、本当の教学を学ぶもよしです。
法師品(第十章)衣座室の三軌編 その3【法華経】


