法華経【第六章】授記品その4
【授記の心】一切衆生皆成仏道
法華経と共に
さっそくですが、前回の続きを始めましょう。
実際、法華経では、授記を受ける人の数が、どんどん拡大していきます。
まず、譬喩品では、舎利弗一人に授記されます。
それを見て歓喜の心を起こし、一仏乗を信解した四人の声聞が、授記品で授記を受けます。
ついで五百弟子授記品(第八章)では、富楼那と五百人の比丘への授記が行われ、授学無学人記品(第九章)では、阿難および羅睺羅と二千人もの弟子たちに授記されます。
以上、方便品から人記品に至る一連の説法で、合わせて四回にわたり声聞の弟子への授記が行われます。
舎利弗一人から始まって、四大声聞、五百人の弟子、そして二千人の比丘へと、しだいに授記の対象が広がっているわけです
次の法師品(第十章)では、さらに授記の対象が広がっていきます。
人記品までは、授記の対象は声聞たちだけですが、この法師品では、法華経の一句一偈を聞いて一念でも随喜の心を起こした人、すべてに授記されます。
「一念随喜」だけが授記の条件とされ、天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽の八部衆も含め、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆、声聞、縁覚、菩薩というあらゆる衆生が授記の対象とされています。
しかも、それは釈尊の在世だけではなく、滅後の衆生にもおよんでいます。
壮大な授記です。
生命力が、ぐんぐん開けゆくドラマです。
法華経の授記はまだ続きます。
すなわち、提婆達多品(第十二章)では、成仏できないと思われていた悪人の提婆達多への授記が行われます。
また、観持品(第十三章)では、女性への授記が具体的に説かれます。
女性も法華経以前の諸経では成仏できないとされていました。
結局、法華経では一切の衆生に授記していることになります。
法華経は「一切衆生皆成仏道」(すべての衆生が仏道を成就できる)の教えだということが、授記にも具体的に表れている。
授記には、「善道への授記」と「悪道への授記」があります。
他の経では、提婆達多のような悪人に対しては堕地獄の授記はあっても、成仏の授記はありません。
悪人に善道への授記がなされることもありますが、せいぜい辟支仏(縁覚)どまりです。
また、二乗に対しては「永不成仏」、永遠に成仏できないとされています。
このように諸経は「差別の授記」です。
法華経は「万人への授記」であり、「平等の授記」です。
他経では成仏できないとされた二乗・悪人・女人を含めて、すべての人に成仏の授記がなされている。
その授記の要件は「信解」です
法師品で言えば「一念随喜」です。
この、いわばエンジンによって、成仏の「軌道」に入り、「軌道」を前進するのです。
天台大師は、法華経の授記の他経にない特徴について、次のように述べています。
「他経では、ただ菩薩に授記するだけであって、二乗には授記していない。ただ善人に授記するだけであって、悪人には授記しない。ただ男性に授記するだけであって、女性に授記しない。人界、天界の衆生に授記するだけであって、畜生には授記しない。法華経では、皆に授記している」(法華文句)
「万人への授記」が法華経の心なのです。
それなのに、どうして声聞への授記が中心になっているのかという点について、天台大師は「法華玄義」でこう述べています
「法理は具体的な物事に託してはっきりと彰すものである。具体的な物事は言葉でもってはっきりと弁えるものである。法華経の中で、声聞に対して記別を授けるといのは、一切の衆生が皆、成仏できるということを彰している」と。
つまり、万人の成仏という法理を、具体的に声聞に即して、はっきり述べたのである、と。
最も成仏から遠いと思われいる声聞にさえも成仏の授記が与えられるのですから、万人に成仏の授記が与えられるのも、不思議ではないことになります。
「あらゆる人を成仏させる」というのが、法華経の「授記の心」です。
この心をそのまま実践したのが不軽菩薩ではないだろうか。
彼は、いかなる人も将来、仏になる人であるから尊敬すると言って、すべての人を礼拝しました。
その時、不軽菩薩が唱えた言葉は、まさに授記の言葉です。
いわゆる「二十四文字の法華経」です。
「我れは深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏すること得べし」
【読み仮名】
我れは深く汝等(なんだち)を敬い、敢えて軽慢せず。所以(ゆえん)は何(いか)ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏すること得(う)べし
これに対して、礼拝された人々は不軽菩薩を軽んじて、お前のような無智な者からの虛妄の授記などいらない、などと悪口・罵詈し、迫害しました。
法華経【第六章】授記品その4


